●豊臣秀吉の富の源泉は商人経由と金山銀山直轄から
―― 前回、豊臣秀吉の話が出ましたが、今回は秀吉自身がどういう経済の回し方をしたのか、うかがっていきたいと思います。
秀吉というと、非常に大掛かりな城攻めを行っていて、北条攻めの時なども20万人を超えていますね。それだけの軍隊を動かすのは、相当経済的な背景がないと難しい話です。その経済力を賄うために、秀吉はどういう運営をしていたのでしょうか。
小和田 秀吉は、今おっしゃった城攻めなどにしても、例えば備中高松城の水攻めでは、大きな堤防を造っていますよね。
―― 大土木工事ですね。
小和田 それには相当お金がかかると思います。そういったお金をかけた戦いは秀吉から始まるような感じです。秀吉自身、若い頃、行商ですが商人の経験があったので、そういった感覚があったというのが一つ。それと、やはり織田信長を見ていたので、商人たちをうまく使えば、彼らから、言ってみれば「ピンハネ」するというほうが経済的には大きいぞ、という思いがあったと思います。
さらに、ちょうど秀吉の時代から、いろいろな金山・銀山が稼働し始めます。そこへ「灰吹法」のような、新しい精錬技術も入ってきます。
―― 金を取り出すときの方法ですね。
小和田 これによってかなり金が豊富になったということと、もう一つ、私にいわせると、いわゆる先行投資に近いものがあるのです。つまり、大掛かりなお城を造るとなると、当然商人たちが集まってきます。城下町をつくるにあたっても、相当な職人や商人が集まるので、そこで町ができる。そういった町の人たちからお金を取る。そういったお金の稼ぎ方を、秀吉はかなり積極的にやっています。
―― 経済をつくりあげていくのに近いですね。
●88両の米を236両にする、秀吉流国内貿易
―― もう一つ、先生がご著書(『NHKさかのぼり日本史(7) 戦国 富を制する者が天下を制す』NHK出版)のなかで書かれていることで印象深かったのは、各地の蔵入地をうまく使って、国内貿易で儲けることです。
小和田 言ってみれば、「相場」をうまく使った商売のようなものです。つまり、比較的安いところでお米を買って、高く売れるところまで持って行って売る方法です。相場による利ざや稼ぎに近いのですが、こういうことをやったのが大きかったのではないでしょうか。
―― ご著書に書かれた例を見てみると、津軽の直轄地で取れたお米が2200石あって、津軽の米相場はその時、100石=4両だった(つまり、2200石で88両)。これを南部まで持っていくと、100石=10両になる。そこで1800石売って、さらに小浜まで持ってくる。ここでは100石=14両なので、そこで残り400石を売る。そうすると、元は88両で買ったものが236両になる。
これを「組屋」という廻船問屋に請け負わせた秀吉は、利益を折半したようですが、こういうものを相当ぐるぐる回していたのですか。
小和田 そうですね。全国には直轄地が結構ありますし、大名領国の中にも直轄地を設けたりしていますから、相当入ってきたと思いますね。
―― ある意味で「商社」的な活動を行って、利益を上げていったわけですね。
●太閤検地ではじき出されたGNP、大坂城に集まった金銀
―― そうすると、秀吉の下の経済官僚は、そうしたことを全部担っていたということになりますか。
小和田 秀吉の場合は、ご承知の「太閤検地」という形で、全国の総生産量、今の言い方ではGNPが初めてはじき出されます。慶長3(1598)年、太閤検地が終わった時に全国のデータが集計されると、1800万石ありました。人口史の研究者の説では一人1年間に食べるお米の量が1石なので、その頃の日本の人口は1800万人だろうという計算になります。
―― そのような経済政策のなかで、秀吉はだいぶ大きく財をなしたと思いますが、どれくらいでしょうか。
小和田 直轄地そのものは、全国でたしか220万石ぐらいなのですが、大坂城内に金が9万枚、銀が16万枚で、250万両といわれています。お米に換算すると、約750万石。だから、かなりの額になります。
●豊臣秀吉の菩提を口実に大坂城の金蔵を吐き出させた徳川家康
小和田 ですから、これは次回の徳川家康の話にもつながりますが、それだけの財力がある豊臣家を滅ぼすのは楽ではないと見て、家康はまず何をやったか。秀吉の遺児である秀頼に対して、「秀吉さまの菩提を弔うために、衰えかけた全国のお寺や神社を建て直すのが供養になる。積極的にやってはいかがですか」ということを勧めます。これは、イコール、大坂城にある金を吐き出させる手です。
もちろんその結果、当時秀頼によって建て直された寺社が国宝になったりしていますから、文化的には意味がありました。だけど、結局は大坂城内にある金蔵がだんだん空になっていくとい...