●当時最大の知識人として外交政策を仕切っていた禅僧
山内 実際にそうなっていくわけだけれども、彼(徳川家康)を、駿河今川家の最も重要な武将として育てなきゃいけない。今川家を支える武将、リーダーとして育てたいという思いがあったから。
家康は、織田信長とは形式的にいえば対等の同盟関係じゃないけど、三河の独立大名として三河一国というものを領有していた松平家の嫡子です。これを格下だと見ていたと思うけども、政治的にいえば今川の重要な同盟者、あるいは有力武将、あるいは客将としてきちんと育てていく。そして、今川の持っている文化的あるいは知的な教養を身につけ、一国を束ねて今川を支えていく。そのような武将に育てていきたいという問題意識が(太原雪斎には)あったでしょうね。
―― そこもまた幸運な出会いですね。
山内 幸運な出会いでした。そして、ある意味では、(太原雪斎のような)禅僧というのは、戦国時代から江戸時代にかけては、最大の知識人であり、最大の政治ブレーンだったわけです。
例えば(時代的に)早いところでいうと、安国寺恵瓊と秀吉の関係、あるいは毛利輝元と安国寺恵瓊の関係です。つまり、安国寺恵瓊は両属関係だったわけです。独立化していくにしたがって秀吉についていくけれども、基本的には毛利家の使僧として出発したわけです。同時に学僧だった。そして領地・領国も与えられ、石高を持つ。実際、毛利家の外交政策を仕切っていくのは、安国寺恵瓊だった。太原雪斎も同じです。そういう役割を果たしていく。
―― でも、そういう人だから、見る目がものすごくあるわけですね。
山内 そうでしょう。実際、雪斎は信長の父の信秀と戦いますから。前線に行って戦闘の指揮までするのです。
●政治的ブレーンとして活躍した安国寺恵瓊
山内 これは恵瓊もそうなのです。関ヶ原の戦いは竜頭蛇尾に終わったのですが、恵瓊は基本的にいえば、輝元の意志を受け継いでいる。これは何て言うのでしょうかね、よく日和見というか、西軍の総大将になったからというイメージが強いのだけども、家康に対して対抗するということは。
そういう外交が成り立つか成り立たないかということは別として、輝元の目論見と安国寺恵瓊による輝元の意志を受けた外交政策というのは、基本的に家康とは戦わないでおくというものです。そしておそらくですが、石田三成をはじめ西軍の前線部隊と家康を戦わせておく。そうすると、両方が消耗する。そして、そこで戦争、戦線が膠着化していく。そのように考えていた関ヶ原の戦いが、一日で終わるなんて思わなかった、誰も、当時は。少なくとも押し返しがあったり何なりがあったりすると考えていた。
―― 数カ月かかると思った。
山内 うん。その時、輝元が大坂城という堅城に拠っていたわけですから、豊臣秀頼の後見として。しかも、毛利は家康に次いでの大大名だから、石高・動員力も大きい。それから何といっても、当時の武将が逆らえない秀頼という権威を持っていた。どの要素をとっても、この関ヶ原の戦いの推移の如何によっては、毛利が天下を取るだろう。そのように踏んだわけです。
―― なるほど。そういう絵図面を安国寺恵瓊は描いていたのですね。
山内 そういうことを、シナリオを、おそらく書いたり、見たりしていたのが、安国寺恵瓊だったんじゃないかと、私は大きいところではそのように見ているんです。
ところが、そこまで見られなかったレベルの人間で、三成憎し、それから三成レベルゆえ肯(がえ)んじない、そして家康こそが次の時代のリーダーだと考える者がいて、そこに自分の毛利はどうなるんだという問題が出てくる。これはある意味では読みが甘いのだけれども、吉川広家あたりのレベルの知恵だと、それで結局、家康に味方するのが毛利の利益だと、こうなるわけです。
―― 見ている次元が違うのですね。
山内 次元が違うわけです。だけど同時に、もう一人、毛利秀元というのが、南宮山の一番上にいて、輝元の代理として来ている。この秀元、吉川広家、安国寺恵瓊という、この三人がそれぞれの違う思惑でやっているわけです。
秀元は何を考えていたか。秀元は主戦派ですよ。やっぱり家康に対して戦う。そして西軍の事実上、前線におけるキャスティングボードを握っていたのは毛利だ、ということを知っていた。だけども、彼は同時に毛利輝元の補佐役でした。元来からすると、彼は輝元に子どもが生まれるまでの養子だった。ですから、輝元の意志というものを近くで知ることができたのは、恵瓊と秀元だったわけです。秀元は恵瓊ほどに徹底して不戦という方針を取ることはできなかった。しかし秀元は、輝元の意志は知っていた。どうしたものかと。輝元の意志、天下も取らせてやりたいと、取りたいと思う。そのあたりのある...