●高い教養と知識で学者と張り合った5代将軍の徳川綱吉
山内 それから、徳川家康に次いで私が偉いと思うのは徳川吉宗です。彼は和歌を詠ませても下手だとされているし、そもそも茶の湯なども苦手だったと、気の毒なぐらいそう思われています。だけど、紀州の藩主から将軍になる人間が知らないはずはない。ちゃんとできるんですよ。できても、家康や吉宗の持っている政治家としての個性があまりにも強烈だから、それが小さく見えるというだけの話です。
―― それで小さく見えちゃって、ものすごく損しているのですね。
山内 学者と同じように張り合った人間、自分のほうができると思ったのが、5代将軍の徳川綱吉です。綱吉は、だから彼の学識というのは、おそらく15代将軍を通して、一番優れていた男ですよ。彼の学問というのは。教養、知識。
―― 自分で講義していたわけですからね。
山内 する。それから自分で解釈もする。彼の喜びというのは、そういうことを喜んだから、自分も知識があったのでしょう、唐音で講義させる。唐音というのは中国語ですね。原音でするわけです。それを荻生徂徠や柳沢吉保といったブレーンたち、それを自分の周りに呼ぶのですよ。そうして、それで唐音で議論させたりして、それを聞いて喜ぶし、理解できるわけです。自分でも自ら講義・講演をやっていく。『易経』の講義は最初から最後までやって、ちゃんと完成したりするわけです。
―― 『易経』でそれができるわけですね。
山内 終わったときに完成祝いをした。もちろん何年もかかって、ですよ。それをちゃんとやっていく粘り強さと、そういうことをやっていく力量があった。とはいえ、もちろん殿さま芸といえば、殿さま芸ですよ、基本は。
だけど彼の場合は、やはり聖人の学。そういう孔子以来のそういう儒教、儒学、これを知識としてだけではなくて、そこで語られている、さまざまな理念や理想、これを政治に生かしたいという、彼なりの強烈な意識があったわけです。そういう点でいうと、大変な個性がある。しかも学者と同じぐらいの力量をもって、それをやろうとしたわけです。これはある意味では、政治家を超えているわけです。
―― 超えていますね。
山内 そうすると、普通の政治家はたまらないわけです。老中以下、若年寄から奏者番からいろいろな役職の人たちが、これを畏まって聞かされるわけですから。
―― 動かなくなっちゃうわけですね、組織として。
山内 そういう動かなくなることもそうだし。それ自体がたまったものではないわけです。例えば総理大臣にそんなすごい優秀な人が来て、国会議員の中には本など読まないという人もいるわけです。勉強しない人もいるから。
―― 好きじゃない人もいますね。
山内 好きじゃない人もいる。それが畏まって、もう1時間半とか、90分、あるいは2時間、こうやってジーと聞いているというわけです。それで夏なんかに蚊も入ってくる。アブも入ってくる。でも、生類憐れみの令があるから、蚊なんかを叩くわけにいかない。血を吸われても、じっと辛抱しながら、こうやって聞くなんていう、こういうことをできるか、ということになるわけです。
ですから、綱吉というのは、ある意味では非常に面白い男なのです。やはり江戸時代を通して最も、それは優秀性や個性的ということの定義にもよるけれども、それを持っていたのは何といっても家康、それから綱吉、吉宗でしょう。
徳川家光というのもよく言われるけど、基本的には家康の遺産で生きていた人です。
―― なるほど。家光は家康の遺産で生きていたのですね。
山内 それと、家臣団がしっかりしていて直系で来ているから、彼の場合は官僚集団と自分の側近集団が重なったわけです。
―― なるほど、保科正之もいたし。
山内 そう、彼もいたし。素晴らしい弟だね。
●門閥譜代と側用人、変化していく幕府の権力構造
山内 それから次の徳川家綱もそうだった。正之と要人がいた。
ところが、家綱が死んだ後、5代将軍の綱吉は、そこからは嫡庶でいえば、庶系で家綱の弟になるわけです。ですから、彼の持っていた側近集団と、幕府の中枢部のエリートを「門閥譜代」というけれども、これらが重ならないわけです。そこで、いわゆる「側用人政治」というものが起こってきて、牧野備後守、柳沢出羽守というような人を徴用するわけです。
この側用人政治という「権力の柔構造」と、「権力の剛構造」といいますか基本的な筋が両立するような形で、ある意味では幕府の力というものが少し変化していく。それから財政危機が重なっていくから、幕府は大きな試練を受けるのです、家綱末期から。
―― 家綱末期から起こるのですか。
山内 家綱末期です、4代将軍の時。綱吉が将軍になった時は、完全に財政危機です。それで貨幣の鋳造、...