●評価も批判も受ける君主と政治家たち
皆さん、こんにちは。前回は『マカーマート』についてご説明し、それを今回の総理総裁選の選出にまつわる政治分析の一助といたしました。
最後で私が読み上げた(のは、次の詩でした)。
「君主なる者いずれも気まぐれで
欠点のみぞ多き者、ああどれ程に
欠点を持ちし者なるか!
善行をなし、礎石を落成式まで
積み上げる君候の如何程あるや?」
君候とは君主のことです。このようにして評価を受けるのは、もちろん君主だけではありません。
現代においても政治的な指導者たちは、今回の総理総裁選の候補者たちもそうであるように、人々の評価や批判にさらされます。
国会の総理候補者についても、特徴や個性はポジティブなものばかりではなく、批判者や政治ジャーナリズムはネガティブな部分、もしくは後ろ向きな部分も、しばしば取り上げます。例えば小泉進次郎氏については、彼の知性や教養のあり方まで露骨に揶揄するジャーナリストもおり、一部の人たちは厳しく嘲弄するほどでした。
そもそも政治家としての素質の欠点を衝くのはともかくとして、政治家の学歴などをことさらにあげつらうのはまことに不見識であり、嘆かわしいものです。当然のことですが、閣僚や国会の常任委員長たち、また党の役員たちの中には、しばしば高校卒業者や専門学校卒業者もいるわけです。大学や大学院の卒業などをもって、政治家としての資質があるやなしやというような議論は、あまりに問題を短絡化しているということです。
●政治家の資質として、負けたときには支援者たちに心を砕くべき
それよりもむしろ重要なことは、政治家の資質として自分がリーダーとして負けた場合、非常に古い言葉を使えばいわゆる「子分」あるいは「弟子」たち、今でいえば「支持者」たちや「サポーター」あるいは「後援者」や「支援者たち」、彼らがどこへ立ちゆくのか、やはり古い言葉でいうと「身過ぎ世過ぎ」というものにも、鋭意心を砕くべきです。
つまり、自分だけが大臣や党役員として残り、負けた自分に従ってきた同志たちを無役の冷や飯食いに放置するようなことでは、リーダーとはいえないわけです。そういう点で自民党というのはある意味で、高市氏や小林(鷹之。コバホーク)氏らが、同志たちの入閣と引き換えに自分の入閣や役員就任を拒否したり、自分は...