●中原で繰り広げられた中国・抗争の歴史
これから『中国の「なぜ」』『中国とは何か』ということについて6回に分けて話をしてみようと思います。1回目は『なぜ「中国はひとつの国なのか」』というテーマでお話ししてみます。
中国は本当に巨大な国ですが、たとえばローマ帝国が歴史的にいくつかの国に分解していったように、なぜ中国だけはずっとひとつの国であり続けたのか、その謎についてお話しします。
我々は通常、中国を「国」と呼んでいますが、中国が国なのか、国家なのか、あるいは集合体なのかは議論があるところです。「中国」という言葉は歴史的に大変古い言葉ですが、我々が今使っているような、中国という「国」を表わした言葉ではありませんでした。皆さんご存知のとおり、中国の王朝というのは、たとえば、秦、漢、元、宋、明や、三国志で有名だった魏・蜀・呉など、漢字一文字で表わされる王朝でした。そういった国々がひとつの大きな力を持つために常に争ってきたという抗争の歴史が、中国の歴史であると言えます。
そして、中国の文明というのは、黄河文明や長江文明と言われるように、河の文明です。河の周辺、特に黄河流域に住む人たちは「漢」と呼ばれていましたが、この「漢」という字は「水辺、水の近くに住む人」という意味であり、水とは黄河のことで、その中心は洛陽であり、洛陽を中心としてこの一帯は中華ないしは中原(ちゅうげん)と呼ばれていました。この中原を目指して、周辺の部族が攻め込んできて、ある部族が都を建てて王朝として成立し、また違う部族が攻め込んできては前の王朝にとって代わり、それを繰り返してきました。
●なぜ「中原」が中心になり得たのか?
ではなぜ、この中原が中心だったかというと、それは漢字という文字があったからです。中国は広大なので、さまざまな民族がなんとなくそれぞれの文字をつくっていました。おそらく数十、数百の文字や文字に近いものがあったと思います。しかし、似たような文字であっても、コミュニケーションの道具なので、最終的には統一されなければなりません。秦の始皇帝が中国で最初の統一皇帝と呼ばれるのは、実はこの文字を統一したからです。秦は周辺の文字をすべて集め、今日の漢字の原形をつくりました。また秦は、重さや秤などの度量衡、道路の広さなど、いわゆる社会インフラの基本となるようなこともこの時代にまとめ上げました。
●武力では負けても文化で生き延びる-文化の力に根差した中原の同化力
この文化の中心にめがけて、いろいろな民族が攻め入るようになりました。しかし不思議なことに、文化の中心である中原に他の民族が攻め入っても、いつの間にか中原の文化に同化されてしまいます。
今日の中国の大きさというのは、清朝のときの大きさですが、皆さんがよく御存知の満州にも3百万人から5百万人いた満州族が万里の長城を越えて入ってきました。この部族はまったくの異民族ですし、文字も漢字とはまったく違う満州語をつかっていました。たとえば「ハルピン」というのは満州語です。東北三省にあるような言葉のほとんどは満州語を語源にしていますが、それが2千年、3千年の歴史を持つ中原に入ってくると、いつの間にか同化してしまい、満州語もなくなり、清朝の文化にどんどん溶けていってしまいました。あのユーラシア大陸を支配した元、モンゴル族もそうでした。一時は中原に入り込み支配をしますが、いつの間にか同化されてしまう。このように、周辺諸国は中原を目指して王朝を建てようと攻め入りますが、中華の持つ文化の力に同化して結局は滅びてしまう。
つまり、今日の中国というのは、異民族によって、しかも負けることによって拡大していったと言うことができます。これはあくまでも仮説であり、歴史の皮肉でもありますが、日本は日中戦争をやり、東北三省を支配して満州国を建て、中原に入っていきますが、もしあのとき、日本が勝ち、中国を支配していれば、元、モンゴル族と同じように、今ごろ日本は中国の何番目かの省として、中国語と日本語をチャンポンにつかいながら、中国の一員になっていつの間にか滅びてしまったかもしれません。そういう可能性もあったのです。ですから、中国というのは、負けながら増えていく、そのことによって生き延びた例外的な国であることを押さえておく必要があると思います。
●多民族興亡の中を生き延びてきた中国
中国は歴代、もとからの中国を代表するような漢族が建てた王朝はほとんどありません。我々の知る清朝にしても、劉邦の漢にしても、唐、元、明にしても全部異民族です。唐は北方系の人たちが建てた王朝です。漢についても、もとからの純粋な漢族はとっくに滅びていて、北方系の人たちが混血化したりしながら漢という名前をつかって建てたものです。ですから、我々...