●村という組織が社会における基本の単位
戦国時代において、民衆はどのような仕組みをもって生き延びようとしていたのでしょうか。この時に重要な存在だったのが、「村」という組織です。これが民衆にとっての生命維持装置としての役割を果たしていました。
民衆にとっての根源的な生命維持装置の基本は、「家」という組織です。これは、生産組織、経営組織としての家ということになります。しかし、慢性的な飢饉状況の中では、経営組織としての家の存続が非常に難しい状況にありました。有力な百姓層であったとしても、大抵は3代目ぐらいには潰れてしまっていたのです。
このように家が永続的に続かないという状況の中でつくり出されたのが、家々が連合し、さらには家を構成していない百姓たちが集まってつくり出す支援的な共同体としての村です。13世紀の後半以降、こうした共同体がつくり出されていきます。この村という共同体を基礎として生存を図ることが、中世後期以降における社会の基本的な在り方でした。
ちなみに、この慢性的飢饉が克服されるのは、戦国時代を経て、江戸幕府になる17世紀後半ほどです。江戸幕府の将軍でいうと、4代目の徳川家綱、5代目の徳川綱吉の時代であると考えられています。ですから、それまでの人々は、村という組織に依拠しながら懸命に生存を図っていたのです。
この村という組織が社会における基本の単位であり、この村が安定的に存続していくということを、当時は「成り立ち」と呼んでいました。私もそれに倣い、「村の成り立ち」と表現して、この動きが社会の基本的な展開をもたらしていったのだと考えています。
●政治団体としての村
この村という共同体の性格はどのようなものだったのでしょうか。
まず村は、ある一定の地域に存在する、百姓がつくり出した家組織が連合して形成されていました。そして、村の構成員に対して、税金である独自の徴税権、法律をつくる立法権、法律を犯した場合に対しての取り締まりの行為である警察権、さらには村の構成員を兵士とする、対外的な戦争を行うための軍事力を有していました。村とは、そうした力を持ち、自立した政治団体としての姿を持っていたということです。その村の成れの果てが、現在の地域の集落や部落です。つまりこうした村は、もともとは武力をも有する組織であったということなのです。
村はそれゆえ、構成員の各家に対しての私権を制約する公権力として存在していました。例えば、その領域内の耕地などは、個々の家の所有権が成立していました。村は、この所有権に対して規制をかけました。あるいは、村の決まりを破った家や、その構成員の百姓に対して、村から追放するという権限をも行使していました。
こうしたことからすると、村が構成員の生死を規制し規定する組織であったということが分かります。この性格を現代社会に当てはめると、国家に該当します。政治団体としての村の機能は、「国家的村落」と定義付けされているのです。つまり、私たちが現代の国家について認識しているのと同じような権力を、当時の村という組織が持っていたのです。これは非常に重要なことです。
日常的で慢性的な飢饉状況の中で、人々はこうした政治団体としての村をつくり出して、その活動の中で生存を遂げようとしていました。これが戦国時代の基本的な姿です。
●戦争の恒常化
戦国時代ですので、この時代の何よりも大きな特徴は、戦争が恒常化していたということです。15世紀の半ばに、関東では「享徳の乱」という戦乱が、その10年後には、京都において「応仁・文明の乱」が始まります。関東関西それぞれで戦乱が続いていったことで、いわゆる支配者同士の戦争が恒常化していったのです。その結果、それまでの政治秩序を構築していた室町幕府の政治体制が解体していきます。
この戦争の恒常化は、その後16世紀末に羽柴秀吉(いわゆる豊臣秀吉)が列島を統一するまで、ほぼ150年間にわたり続きました。この150年にわたって続いた戦争の日常化が、戦国時代の大きな特徴だったのです。
150年は大体5世代にわたっています。つまり、3世代目くらいからは生まれた時からずっと戦争をしているのです。そして、その孫くらいまでは、日常的に戦争を行い、戦争の中で育っていますので、とにかく身構えている状況です。このように考えると、17世紀において戦争のない社会をつくり出すことがいかに大変な労力を要するものであったのかを想像できるかと思います。
ちなみに現代社会においては、第2次世界大戦後70年ほどたちました。もちろん、この70年ほどのあいだに戦争状態が続いている地域もありますが、それでも長くて約70年です。つまり、戦国時代から比べるとまだ半分でしかないということなのです。こうしたことからも、い...