●新しい領国支配の仕組み
戦国時代における基本的な戦国大名の構造は、領域国家、納税主体である村の安定的な存立、村の成り立ちの維持を基礎としています。戦国大名は、度重なる対外戦争による危機や飢饉災害による村の存立の危機に対して、村を安定的に存続させるために、さまざまな対策を取っていきました。これが、その後の社会への変化を生み出していきました。このことを、民衆統治についての資料が最も豊富な北条家の事例を基に、ご紹介します。
まず、新しい領国支配の仕組みが構築されていきます。北条家の例でいえば、戦国時代が始まって50年余りがたった永正15年(1518年)に、北条家の初代である伊勢宗瑞、いわゆる「北条早雲」と呼ばれる戦国大名が、大きな改革を行いました。
この時期における北条家の領国は伊豆と相模でしたが、ちょうどその地域は大飢饉に見舞われました。北条家はそれへの復興策として、新政策を実施しました。まず、村宛てに文書を出す仕組みをつくり出しました。それまでは、戦国大名は領国における王様なので、対面性のない者に対して直接書類を出すことはあり得ませんでした。身分制社会であったために、自分の署名をした書類を出すとしても、せいぜい自分たちの家来、あるいは寺社に対してのみでした。納税する村に直接書類を出すことは、身分の違いが大きすぎるために有り得なかったのです。そのため、村に対する命令は、基本的にその村を直接支配する家来たちが出していました。
ところが、実際には徴税に際して家来によるさまざまな不正が存在しており、その不正を見過ごしておくと、村からの大名に納められる租税に差し障りが生じることが判明しました。それゆえ、こうした不正を排除する動きが生じたわけです。そこで、大名の方から実際に納税通知書を村に対して直接送付する仕組みがつくり出されました。徴収するのは家来なのですが、家来はその納税通知書に基づいて徴収することになったのです。
●「目安制」の採用で戦国大名と村との関係を大きく変えた
そして、その上でこの納税通知書を実行性のあるものにする必要があります。この通知書があったとしても、それまでのように家来が不正を働いて徴収し続けていたのでは意味がないからです。そこで、この通知書と異なる課税をかけてきた家来がいたならば、直接村から、大名家の法廷に訴訟してきても構わないという制度をつくり出しました。これは、当時の言葉で「目安」と呼ばれる直訴の制度です。
それまで、村が自らに対して課税してくる大名家の家来を訴訟しようとした場合、直接徴収しに来るのはその大名家の家来の家来なので、その家来の主人である大名家の家来に対して、訴訟を行うしかありませんでした。
ところが、その大名家の家来クラスは、自分の家来の不正をそう簡単には認めないので、なかなか問題が解決されません。よって、解決しようとする場合には、村は直接武力でその家来に対して抗議をすることが生じかねませんでした。北条家はこれに対し、村から直接自分(大名家)に訴訟の申し立てを行うことを認めることで、納税通知書通りの租税徴収の実行性を担保しようとしたのです。
これにより、大名家の命令を村に直接伝える仕組みがつくり出され、村の方から大名家に対して直接意見をして、訴訟することができる仕組みがつくり出されました。
戦国大名は、領国内の村が権力支配基盤になっていたのですが、直接対話するというルートがありませんでした。それが、大飢饉に対する村への復興策が講じられる中で、新しいルートが採用されていきました。これがさらに、大名と領国内の各村との関係の在り方を大きく前進させることになりました。