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北条家と武田家の全面戦争で顕著になった「御国」の論理

百姓からみた戦国大名(7)「御国」の論理の誕生

黒田基樹
駿河台大学副学長・法学部教授/日本史学博士
情報・テキスト
戦国大名の構造改革にとって重要なのは、目安制の導入である。これにより、室町時代にはなかった村による大名への直接訴訟権が認められ、万人(村)に開かれた裁判制度が成立した。また、これは村同士の戦争を抑止するものとなり、村が安定的に存続できるようになる。そこで生み出されていったのが「御国」の論理だった。(全8話中第7話)
時間:11:40
収録日:2019/03/20
追加日:2019/10/27
≪全文≫

●全ての村に開かれた裁判制度


 ここで何よりも注目されるのが、目安制の存在です。天文19(1550)年の改革で、北条家の領国においては目安制が全ての村に認められたのですが、これは全ての村に対して、大名に対する直接訴訟権を認めるということを意味します。

 これまでの政治権力の裁判は、あくまでも構成員の権利調整のレベルでした。ところが、ここで、租税を納入する村に、最高権力者の大名へ直接訴訟する権利が認められ、支配下にある万人(村)に開かれた裁判制度が、初めて成立しました。

 逆にいえば、政治権力における裁判とは、幕府と対面性を持っている者に限られていました。要するに主従関係を結んでいる存在しか幕府に訴訟できなかったのです。幕府にとっては、家来同士の裁判なので、利害調整のレベルです。しかも、この裁判は主人としての恩典として行うという性格のものでした。それが、戦国大名の目安制によって、被支配者である社会主体そのものに裁判を受ける権利が与えられました。

 目安制は、当初は支配における不正や、村の成り立ちを妨げるような租税の取り立て、領主と村との階級間の矛盾への対応のために機能していました。しかし、村はこうした当初の目的をお構いなしに、村が抱えている問題全てを目安制の対象にして、訴訟をするようになっていきました。


●目安制の徹底により、村同士の戦争が抑止された


 その中で重要なのは、村同士の紛争について訴訟し、大名もそれに対して裁判で応えていくという事態です。それまで村は、独自の武力で解決に当たっていましたが、目安制の成立以降は、大名が裁判によって紛争を解決することとなります。つまり目安制は、村同士の戦争を抑止する機能を持つものなのです。村同士の紛争に対して戦国大名は、家中、家来に対してと同様に、相当、兵具、合力を規制しました。

 先ほど述べた通り、これまでの村は、構成員の百姓が戦死したり、相手方の村に攻め込まれ耕地が破壊されるような被害を出してでも、戦争に勝利することで生産資源を確保してきました。そうして生き残ってきたのです。しかし、目安制以降はそうした多大な犠牲を伴う武力行使を回避して、戦国大名の裁判によって問題を解決する仕組みが社会の中につくり出されました。

 ただし、戦国時代において、戦国大名は年の半分ほどは戦争に行っているので、裁判がしょっちゅう行われるわけではありませんでした。訴訟したとしても、出陣中だから帰ってくるまで待ってくれ、ということもありました。ところが、生産資源をめぐる争いとは季節性があるため、喫緊の課題です。それゆえ、目安制がつくり出されたのですが、それがあらゆる場面で適用されるということはありませんでした。


●戦国大名の構造改革は、江戸時代の政治権力の基礎に


 これが実際に機能するようになるのは、大名権力、政治権力が戦争を停止させた江戸時代に入ってからです。ただし、そこにおいても、村同士の戦争が抑止されていく基本的な仕組みは、この目安制でした。目安制が全面的に応用されることで、村同士の戦争が消失していったのです。こうした状況のもとになる制度が、戦国大名の構造改革によってつくり出されました。

 このように戦国大名は、村の成り立ちに当たり、飢饉や災害の危機に際して村の復興策を取り、村が安定的に存続できるような仕組みを次々に構築していきました。

 こうした仕組みは、村が自らの戦争費用を納めてもらえる状態を維持するためにつくられました。これにより、村は対外的な戦争被害をある程度受けなくて済むようになりました。また、飢饉や災害によって存立の危機に陥ったときに、さまざまな減税対策を行うことで、村は戦国大名から一定の寄与を受けます。そのことが戦国大名に、村々の成り立ちは自らの統治のおかげであるという意識を生み出させることになりました。


●「御国」の論理の誕生


 それが表現されるものとして生み出されたのが、「御国」の論理です。北条家の場合、永禄12(1569)年から元亀2(1571)年に、隣接する強大な戦国大名である武田家と全面戦争をしました。この際に、「御国」の論理が顕著に現れました。

 この時から、天正15(1587)年の小田原合戦で滅亡するまで、北条家は中央政権である羽柴政権との戦争を準備していきますが、これは北条家そのものが滅亡してしまいかねない、極めて重大な危機でした。

 こうした防衛戦争のために、北条家は領国内の村々に対し、契約した通常以上の負担を村に求めるようになりました。大普請役については、村に対して年間の負担量が決められていたのですが、この2つの戦争の際には、決められた負担量だけでは間に合わないので、追加の負担を村に対して要求したのです。また、村は普請役などの戦争費用を納めている代わりに...
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