●全ての村に開かれた裁判制度
ここで何よりも注目されるのが、目安制の存在です。天文19(1550)年の改革で、北条家の領国においては目安制が全ての村に認められたのですが、これは全ての村に対して、大名に対する直接訴訟権を認めるということを意味します。
これまでの政治権力の裁判は、あくまでも構成員の権利調整のレベルでした。ところが、ここで、租税を納入する村に、最高権力者の大名へ直接訴訟する権利が認められ、支配下にある万人(村)に開かれた裁判制度が、初めて成立しました。
逆にいえば、政治権力における裁判とは、幕府と対面性を持っている者に限られていました。要するに主従関係を結んでいる存在しか幕府に訴訟できなかったのです。幕府にとっては、家来同士の裁判なので、利害調整のレベルです。しかも、この裁判は主人としての恩典として行うという性格のものでした。それが、戦国大名の目安制によって、被支配者である社会主体そのものに裁判を受ける権利が与えられました。
目安制は、当初は支配における不正や、村の成り立ちを妨げるような租税の取り立て、領主と村との階級間の矛盾への対応のために機能していました。しかし、村はこうした当初の目的をお構いなしに、村が抱えている問題全てを目安制の対象にして、訴訟をするようになっていきました。
●目安制の徹底により、村同士の戦争が抑止された
その中で重要なのは、村同士の紛争について訴訟し、大名もそれに対して裁判で応えていくという事態です。それまで村は、独自の武力で解決に当たっていましたが、目安制の成立以降は、大名が裁判によって紛争を解決することとなります。つまり目安制は、村同士の戦争を抑止する機能を持つものなのです。村同士の紛争に対して戦国大名は、家中、家来に対してと同様に、相当、兵具、合力を規制しました。
先ほど述べた通り、これまでの村は、構成員の百姓が戦死したり、相手方の村に攻め込まれ耕地が破壊されるような被害を出してでも、戦争に勝利することで生産資源を確保してきました。そうして生き残ってきたのです。しかし、目安制以降はそうした多大な犠牲を伴う武力行使を回避して、戦国大名の裁判によって問題を解決する仕組みが社会の中につくり出されました。
ただし、戦国時代において、戦国大名は年の半分ほどは戦争に行っているので、裁判がしょっちゅう...