●読み書き能力と「黙読」の新しさ
―― 皆様、こんにちは。
本村 こんにちは。
―― 本日は本村凌二先生の「江戸とローマ」講義として、今回は「読み書きの楽しみ」というテーマでお話をいただきたいと思っています。本村先生、どうぞよろしくお願いいたします。
これまでの講義でも言及いただきましたが、江戸とローマに共通するものとして、読み書きの能力の高さがあるということでした。具体的に今ではどのくらいのイメージで語られているのでしょうか。
本村 読み書き能力は20世紀になって、多くの人が学校に通うのが当たり前になってからのものです。以来、読み書きができないのは一つの能力の欠如のように見なされてしまいます。しかし、つい100年ぐらい前までは、日本にも読み書きができない人はたくさんいたわけです。戦前のレベルですら本当にそうです。
それから、読み書きというと、われわれは読む場合に黙読を当たり前だと思っています。ところが、黙読というのは極めて新しい習慣です。ヨーロッパの中世では、修道院をのぞいてみたお百姓が、何かを黙って見つめている学僧に出くわして、非常に不気味な思いをしています。おそらく写本を読んでいたのでしょうが、黙読というのがまったく想像できないものだったのです。読み書き能力を考えるときに、黙読を皆ができるのが非常に新しい現象だというのが一つあります。
だいたい私の祖父がそうでした。彼は19世紀末に生まれた人で、尋常小学校を出ていたので、新聞は読めました。当時、おそらく尋常小学校四年生ぐらいまでが義務教育だったのでしょう。文字は読めるし、新聞を取って毎日読んでいるのですが、ブツブツ言いながら音読していました。彼にとっては、やはり音(声)に出さないと読めなかったのか、そういう光景を小学生の頃、私は目の当たりにしていました。
●リテラシーの重要性に気づいた現代人
本村 21世紀や20世紀後半のわれわれは、人は皆読み書きができて、しかも読む場合には黙読が当たり前のように思っているが、実はそうではない。そういうことを前提に考えると、やはり読み書きができるというのは人間の歴史の中で、「決定的な」というぐらい大きな役割を果たしています。
ただ、それは個人個人では評価できるけれども、全体としてどれぐらいだったのかなどということは分かりませんでした。戦後の今のような社会...
(アレクサンダー大王)