●真剣な闘いを見たい観衆、剣闘士を保全したい主催者
―― ローマの庶民文化では、比較的動的で競技系のものが好まれたようです。一方の江戸は、例えば吉宗が隅田川の畔に桜を植えたりしています。
本村 「千本桜」ですね。
―― ええ。中野に桃の名所をつくったりと、そういうことが比較的多くございます。先生は江戸と庶民文化をどのようにご覧になっていますか。
本村 ローマはどちらかというと剣闘士などが代表的で、流血のものを目撃して楽しみました。それに比べれば日本の花見や歌舞伎などはずいぶん穏やかな見世物だったのではないかと思いますね。
―― 闘う系でいうと、日本では相撲ぐらいでしょうか。
本村 そうですね。闘うといっても刃物を出してやるわけではないですし。
―― はい。剣闘士は映画の通り、もう実際に命のやりとりをするということになるわけですか。
本村 いや、それは映画ほど派手ではないですよ。あれ(『グラディエーター』)はリドリー・スコット(監督)が宣伝風にやっていたようなところもある。『スパルタカス』という1960年ぐらいにカーク・ダグラスが主演・総指揮した映画のほうが、むしろ剣闘士の実態に近いのではないかと思います。
―― それはどういうものになりますか。
本村 もう少しみんな慎重に闘っていますね。『グラディエーター』では派手に斬り合ったりして…。
―― ワッと斬り合って、次々殺していくみたいな。
あれは主催者にとってまずいのです。主催者サイドには、剣闘士を雇っている組合があります。そういう組合の親方にとって剣闘士は財産なわけです。だからそんなに殺したくないのです。
―― そうでしょうね。
本村 例えば、あるところから5人ずつ出てきて、5つぐらいの試合がある。多くても10組ぐらいではないかと思います。そういう中で、闘いによって片方が死に片方が生きるような試合というのはおそらく1日1つぐらいではなかったかと言われています。
―― なるほど。
本村 興行主からすれば、自分たちの資本をなるべく失いたくない。一方、民衆としては、そういうものを見たい。ただ流血を見たいというより、やはり真剣な闘いを見たい。相撲にたとえれば、「勝負には負けたけれども相撲では勝った」とか、「いい相撲でしたね」といわれる勝負があります。やはり、観衆は「いい相撲」を見たいわけです。
つまり、ギリギリで闘った結果として負けた側には賞賛が贈られる。だから、いわゆる本当の流血のシーンを見るのは1日の中で1組ぐらいだったということです。5人ずつ5試合で合計10人が決闘するとして、実際に亡くなるのは1人ぐらいの割合だったという研究があります。
●財産から奴隷資本に変化していった「剣闘士」
本村 ただ、だんだんローマ帝国の後のほうになってくると、かつてより悲惨になってくるということはいわれています。
―― だんだんエスカレートしてくるわけですか。
本村 はい。一つには、蛮族との争いがかつてより少し多くなってきたため、彼らを引っ張ってきて剣闘士として闘わせる。あるいはそもそも処刑されるはずの犯罪人を連れてくる場合もあります。
そうなると興行主が行うのとは、ちょっと違う発想、違う性格のものになっていきます。いわゆる「奴隷資本」としての考え方の違いが出てきて、人が簡単に殺されるようになっていくような傾向が、大雑把にはあるわけです。
一番平和な時代には、はっきりした数字は分かりませんが、多分5~6組戦う中で1組ぐらいに流血沙汰が起こるようになっていた。もちろん戦いですから、どこかを怪我するようなことは絶えなかったでしょうけれどもね。
剣闘士同士の間には非常な駆け引きがあったといわれています。逃げ回っているばかりでは、見ている者は面白くない。そうではなくて、両方がギリギリまで頑張っているような光景が見たい。そのために、彼らとしては、観衆に分からないように、頑張っているふりをするようなこともあったらしいのです。
―― 真剣勝負ですから、そうでないと基本的にもたないですよね。
●模擬海戦はコロッセオで行われたのか
―― よく聞く話として、ローマのコロッセオでは戦車対人が戦ったり、水を張って船を浮かべて海戦的なものを行ったりしたということもあります。あれは、どちらかというと後期でしょうか、それとも比較的前のほうですか。
本村 いや、あれはコロッセオの構造を考えると、本当にできたのかどうか疑問です。だって地下もあるわけだから。
―― はい。部屋がありますよね。
本村 ですから、それが本当にできたとすると、もしかしたらティベル川のあたりにそういうものを造って行っていたのではないかと思います。実際に湖でやったという事例はありますが、コロッセオを水で埋めたというのは、私は...