●独裁、共和政、民主政の違いはギリシア史から
―― 皆様、こんにちは。本日は本村凌二先生に「独裁の世界史」シリーズのまとめの講義をお話しいただこうと思っております。本村先生、本日はどうぞよろしくお願いいたします。
本村 よろしくお願いします。
―― 「独裁の世界史」シリーズは古代ギリシアから始まり、ローマ、ヴェネツィア、そしてフランス革命、という順で講義が進んでまいりました(後日、ビスマルク編、ロシア革命編、ムッソリーニ編、ヒトラー編を配信いたします)。ここで改めて、今回の「独裁の世界史」という企画の本筋といいますか、それがどういう意味を持つかということでお話をうかがえればと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。
まず、先生には今回のシリーズを通して、独裁と共和政と民主政の三つを論じていただきました。改めて独裁、共和政、民主政の違いをこの場で分かりやすくご説明いただけますでしょうか。
本村 独裁というのは、要するに単独の為政者による支配ということで、その人の意志や人格のようなものが非常に大きく出てくるところだと思います。
歴史を振り返ると、そういうことはどんな時代にもあり、古い時代になればなるほど有力な人間がのし上がってきて、単独の支配者になったケースが多いのです。それでうまくいっている場合もありますが、得てして独善的なあるいは暴君や悪帝と呼ばれる人たちが出てきて、うまくいかなくなります。
それが特に典型的というか、今のわれわれから見て資料がきちんと残っているので分かりやすいという意味では、ギリシア史が一番基本だと思います。
●僭主の始まり、ペイシストラトスと息子たち
本村 ギリシア史を遡っていくと、いろいろなポリスが成立するのが紀元前8世紀ぐらいですが、最初の200年間ほどは王侯貴族が互いに競い合い、合議しながら政治を行っていました。ただ、そのやり方がうまくいっていたというより、しょっちゅうゴタゴタが起こる状態でした。それをうまく収拾しきれない形で、独裁者つまり「僭主(ティラノス)」と呼ばれる人が出てきます。現在では傲慢な人を「タイラント(tyrant)」とよくいいますが、それは「ティラノス(tyrannos)」というギリシア語から来ている言葉です。
さて、しかし、僭主になったからといって、全ての独裁者が暴君であったり悪い王であったりするわけではありません。例えばティラノス(タイラント)の代表格に、アテネのペイシストラトスという人がいます。彼は僭主になるときはかなり強引で、武力に訴えるような暴力的なやり方を行いましたが、僭主になってからの仕事はアテネの国力の充実に向かいました。
アテネが後に、ギリシアといえばすぐアテネといわれるようになるのは、やはりペイシストラトスの力が非常に大きいと思います。彼は独裁者としてそれなりにうまくやり、国家を盛り上げて国力を充実させることに成功した人です。
このような独裁政になると、どうしても血縁関係、多くは息子などが跡を継ぐことになります。ペイシストラトスの息子にも、ヒッピアスやヒッパルコスのような兄弟がいたので、その二人に引き継がせることになります。
兄弟の治世は、最初のうちは父親のイメージがあることも影響して、二人でうまく進めていました。ところが、一人がある事件に巻き込まれてしまって殺されてしまいます。単独の支配者になってからは独善的なところ、いわゆる独裁政(僭主政:ティラノス)の悪い面が出てきました。僭主というのはどこか民衆に支えられているところがあるのですが、民衆に対しての態度も変化したために、結局反感を買ってしまうわけです。
●ギリシアに誕生した民主政とポピュリズム
本村 その後、ギリシアではいわゆる「クレイステネスの改革」という民主政が始まるわけです。紀元前508年ぐらいのことで、いわゆる典型的なギリシアの民主政の誕生です。
しかし、民主政になったからといって、すぐに制度を改革しても、その意義を知る人間たちが、そのための行動パターンを持ってついてくるかどうかが大事です。この時点では形式的に民主政が生まれただけで、それが実質的に機能するようになるのはまだ先のことです。
民衆の一人一人が国家の担い手となり、なんらかの形で国家に関与するのは、ペルシア戦争があって、下層民までが船の漕ぎ手として参加するという過程を経なければなりません。そのようにして民主政が実質的に機能するようになるのが紀元前480年ぐらいでした。
その後、ペリクレスという人物が出ます。おそらく人類史の中でも屈指の政治家です。彼の指導下にあった時期、ギリシアの民主政は典型的に発展していきます。その後、ギリシア世界ではアテネとスパルタを中心にペロポネソス戦争が始まります。その過...