●ポピュリズムに走ったシチリア遠征の失敗
本村 ペロポネソス戦争の勃発が紀元前431年で、翌年疫病が流行し、429年にペリクレスが亡くなります。彼のリーダーシップの下にうまく機能していたアテネのポリスの運営でしたが、その死後は彼の下にいた政治家や軍人のような人々が発言することになってきます。
それが、クレオンなどのアジテーターたち、ニキアスやアルキビアデスのような、ペリクレスとは比べるのもかわいそうなような政治家たちです。彼らは、今でいうポピュリズムに走ります。ポピュリズムというのは、民衆を説得しきれないので、民衆が喜びそうな話をどんどん持っていくようなことです。
そのなかでも、シチリア遠征の失敗が特に大きくいわれます。シチリアは穀倉地帯ですが、アテネ・スパルタ・シチリアという位置関係であるため、シチリアとスパルタはかなり密接な仲でした。だから、スパルタの勢力をそぐためには、シチリアを叩けば穀物が輸入できなくなるだろう。「彼らのつながりを断つために、シチリアに遠征しよう」とアルキビアデスのようなアジテーターたちが主張し、その意見が通りました。
アテネは元々海軍主義を採っていたこともあり、大艦隊を組んでシチリアのシラクーサというところに行くのですが、これが思っていたようにうまくはいかない。結局、長い間そこに滞在して、艦隊を留めます。艦隊というのは狭いところで生活しているため、なかの兵士たちから不満が出てきたり、病気も流行したりということが起こってきます。
結局シチリア遠征は大失敗に終わってしまい、何も成果なしに戻ってこざるを得ないことになってしまいます。
●スパルタはペロポネソス戦争の勝利によって何を失ったのか
本村 この後もいろいろ戦いがありますが、このシチリア遠征の失敗が大きな契機となり、アテネは坂を下っていくようにずるずる負けが続いていくことになります。最終的にはアテネが凋落してスパルタが勝利を収めるというのが、ペロポネソス戦争の経緯です。
ただ、この間に何度も何度も繰り返しで20数年がたっています。古代の戦争というのは1年中やっているわけではなく、夏のシーズンに戦っては冬は休戦状態といった感じでした。そういう形でアテネが凋落し、スパルタが勝利を収めるということになります。
それ以後アテネが凋落したのに代わり、勢力を持ったスパルタやギリシア本土の北方にあるテーベなどの勢力が頭をもたげてきます。そうすると両者がまた競合するようにもなるわけです。
今まで絶対的に力の強かったアテネに代わって勢力を伸ばしてきたギリシアのポリス、例えばスパルタなどは、小さなポリスとしてやっていたときはうまくいっていたのですが、大きな勢力になるとそうでもない。彼らはあまり外に出て行かず、外からも入れないという、ある種の鎖国体制を取っていました、それによって、自分たちの均質性を保ち、文化が混乱しないよう心がけてきたのです。
ところが、勝利を収めたために、スパルタ人たちも各地に出向かなければいけなくなってきた。そうすると、よそからいろいろと違う考え方や習慣が入ってきます。それまでスパルタが鎖国体制のなかで持っていた規律や同質性といったものが、だんだん失われていきます。
●「傭兵団」の出現とポリスの変質
本村 こうしてスパルタがだんだん力を弱くしていくと、その後はテーベなど、いくつものポリスが乱立するような状態を迎えます。さらにそうした諸ポリス間の争いが、紀元前4世紀頃の時点ではかなり頻繁になってくる。そのために各ポリスがお互いに力をすり減らしていくような状況が出てきました。
また、紀元前5世紀頃の民主政が盛んな頃は、各ポリスにも市民の一人ひとりが国家(ポリス)の担い手であるという意識がありました。ところが、この時代になってくると、だんだんそういう気質も失われていってしまいます。その結果どうなったかというと、「傭兵」が出てくるわけです。
傭兵といってもいろいろで、志願者もいれば、他のポリスの出身者でお金がもらいたくて兵隊になる人もいます。ともあれ傭兵団が出てくると、本来的に「農耕市民の戦士共同体」であったポリスの意義が失われてきます。つまり、平和なときには農民で、有事になると戦士になるのが、ポリスのそもそもの成り立ちであったのです。アテネであれスパルタであれそういう形で発展しましたし、ローマにも共通していく精神です。
都市国家の市民というものは、基本的には農耕市民の戦士共同体である。この原則が、傭兵を雇うことによって崩れてしまうのです。これは特にギリシアにおいて著しく、ローマではあまりそういう方向には進みませんでした。
そのために、ギリシアのポリスはだんだん国力を衰退させ、弱体化していきます。ペル...