●ペイシストラトスの息子兄弟は、なぜ失脚したか
―― 前回は、ペイシストラトスによって制度が確立していく頃は、彼が民衆の支持を基盤にした独裁政を打ち立て、アテネの国力を増やしていった時代だというお話でした。
さて、その息子のヒッピアスとヒッパルコスのお話が前回ありましたが、弟のヒッパルコスが死んでしまったために、兄のヒッピアスのほうも崩れていくということでした。ここは、具体的にはどういうような形で問題が起きてきたのでしょうか。
本村 これは、いわばプライベートな問題です。この当時のギリシアはホモセクシャルが当たり前のような時代でしたが、ヒッパルコスはそのホモセクシャルの関係の中に巻き込まれてしまうのです。男同士の「三角関係」といいましょうか、そのあおりで殺されてしまう、という偶然の出来事が起こったのです。お互いの勢力争いのなかで弟が亡くなったというよりも、別のファクターによって弟が死んでしまったということです。
重要なことですが、二人でやっているときは、賢明な僭主であった父親のペイシストラトスの意向をできる限り汲もうとしていた時期でもあったのです。ところが、兄のヒッピアスだけになってしまうと、自分の独善的な思いだけを実現しようとする動きが出てきてしまいます。そのため、反対派の方から僭主であるヒッピアスを倒そうという動きが出てきて、それが、「クレイステネスの改革」と呼ばれる紀元前508年の改革になるわけです。
●排除されたヒッピアスとペルシア戦争
本村 ギリシアのポリスはローマとはかなり違っていたと思いますが、当時アテネにいられなくなったヒッピアスは、ペルシアに亡命していきます。その後、ペルシア戦争が起こると、彼はアテネのどこが弱点かというようなことを、ペルシア側に平気で教えてしまいます。それが「マラトンの上陸」の手引きになります。
彼には、それによってアテネの特定の一派を追放し、自分がまたアテネで返り咲こうとする気持ちもあったのかもしれませんが、そういう大きな情報を平気で敵側に漏らす。これはペルシア側の話なので、ギリシア側のペルシア戦争の記録ではヒッピアスの話はあまり出てきませんが、陰ではそういうことが起こっていたのです。
―― 年代を見ると、本当に激動の様相を呈していますね。ペイシストラトスが亡くなったのが紀元前の528年~7年頃。ヒッピアスが失脚して、クレイステネスの改革が始まるのが紀元前の508年。この間、約20年です。そして、マラトンの戦い(ペルシア戦争)が起こるのが紀元前490年ということですから、たった30~40年のなかで、こういうことが全部起きてきたということになるわけですね。
本村 そうですね、30~40年ですね。でも、今の30年というと、本当に平成だけの話になってしまいます。1980年あたりの日本がバブル経済の上昇期にさしかかった頃から今までの時期ぐらいで40年になる。そのぐらいの感覚です。
―― そうですね。そういう意味では、僭主政が崩れていくのも非常に速かったといえば速かったということですね。
本村 そうです。特に弟のヒッパルコスが亡くなった後の10年ぐらいの間に、テュラノス(僭主)であった兄のヒッピアスの独善的な性格が露骨に出てきました。それが、結局彼が排除される動きにつながったということです。
●デモクラシーのもとになった「クレイステネスの改革」
―― 排除されたヒッピアスが亡命するのが紀元前510年で、それを受けて「クレイステネスの改革」が行われたわけですが、これはどのような改革でしょうか。
本村 これは、形式的な改革です。当時はいくつかの勢力の部族や区域のようなものがありました。それらを10の部族に分けたのですが、そのときに対立し合う部族がたくさんいたのを均質にならすようにしたわけです。
例えばA・B・Cという三つの部族があったとする。これらはもともと山岳地域とか平野のなかの固まった地域として生まれたものですが、これらから一つずつを取ってきて、均質な部族にする。これまでは山岳地域だけの部族、平野部だけの部族など、地理的・空間的に利害関係がはっきりした部族制だったものを、各部族から一部ずつ抜き取ることで、皆同じ均質な部族にしてしまうということです。
そうして、例えば10部族ができているとすると、各部族から50人ずつ選んで、500人評議会をつくります。そして、それぞれから担当者を一人ずつ選んで「10人同僚制」を敷いたりする。そのなかでも特に、軍隊を率いる将軍「ストラテーゴス」を10人選ぶことにより、10部族制に則った戦士団がつくられました。
また、ギリシアの場合、特に「デイモス」が雰囲気的なものとしてありました。そのデイモスを整理統合して、古来の村落であったものを基本として市民団を編成する。その単位として...