●ルソーのいう「一般意志」は本当に存在するのか
―― 少し話題を変えて、これまで、デジタル全体主義に対抗するものとしてどういうものが望ましいかという話をしてきました。デジタル全体主義に対抗する新しい普遍的な倫理として、先生がこの『全体主義の克服』でもう一つお書きになっているのが、「一なる全体に全てを包含しようとする諸概念を批判し、より偶然や、他者に開かれた地平を示そうというものである」というお言葉です。これは分かりやすくご説明いただくと、どういうイメージなのでしょうか。
中島 ハンナ・アーレントという人が、『全体主義の起源』という本を書きます。目の前で起きたナチズムの全体主義は何だったのかを考えていく中で、例えばフランス革命をイメージして、あれは良くないと言うのです。なぜ良くないのかというと、あれは一つの声に全てを結集させてしまったというのです。
―― それはどういうことでしょうか。
中島 例えばフランス革命は、貧困をなんとか解決しなければならず、「パンをくれ」という声に全てが結集してしまいました。しかし、望ましいのはそうではなくて、複数のボイスがあることなのだと言います。単に貧困から脱却するだけが革命の目的ではありません。いろいろなことを変えなければいけなくて、いろいろな声があったはずです。その多様な声がかき消されて、一つの声になってしまったこと、それ自体が大問題なのではないかと言っていました。それを私はずっとイメージしています。やはり別の声、多様な声があったほうがいいのかなという気がしています。
―― 今、フランス革命の事例が出ましたが、フランス革命というと、ジャン=ジャック・ルソーの社会契約論があります。ご本を読んでいて、私が非常に印象深かったのが、中華人民共和国が正当化理論としていっているのが、「中国共産党こそが、ルソーがいうところの『一般意志』の体現者であるから、それは国家も凌駕して正しいのだ」という議論をしている部分です。
この一般意志はルソー的にいうと、普遍的な理想や理性的なものになるのでしょうか。そういうものをある意味では共産党が体現しているという、この一般意志については、まさにテンミニッツTVで、川出良枝先生にご解説いただいているので、皆さんぜひご覧いただければと思いますが、そういう議論があるということで、これは一つの議論としてはあり得ますね。
中島 そうですね。今まで実現するとは誰も思っていませんでした。
―― 実現すると思っていなかった議論なのですか。
中島 はい。しかし、テクノロジーがこれだけ発達してくると、ひょっとしたら一般意志がつかめるのではないかと考えるようになりました。これは東浩紀さんが指摘されていたことですが、ルソーの場合は、まだそういう可能性もあるということだったと思います。
われわれはそれぞれが特殊意志を持っていて、特定のプリファレンス(preference)があります。その特殊意志を体現するものが、例えば政治の世界でいうと、ある政党です。しかし、そのあるAという政党は、ある特殊意志の体現者にすぎません。Bという政党は、同じようにある特殊意志の体現者にすぎないのです。
―― 分かりやすく象徴化すると、例えば共産党は労働者の党で、自民党は経営者や農民などを代表しているイメージです。
中島 そうです。しかし、一般意志はそれをはるかに凌駕します。そんなものがあるかどうか別ですが、本当にその人民の全てが一般的に持っているはずの意志です。
そのようなものはないかもしれません。しかし、もしそれを代理できれば最強ですよね。
●どのようなデモクラシーを目指していくべきなのか
―― これは先ほど先生がおっしゃった、多様な声に応えるのとは真逆のあり方です。
中島 一つの声になってしまいます。特殊意志でいくつか複数のものがあるほうが、より望ましいのか、一般意志で一つの声を代理させるのがいいのかは、ある意味で政治哲学的な大問題なのではないかと思います。
―― 大問題です。例えば、これだけネット環境が行きわたっているので、国民投票的なことをやろうと思えば、すぐにできます。皆さんの動向や行動原則がだいたい見えてきてしまうと、誰かが、「これは一般意志ですよ」、「国民の9割9分がこれを望んでいるのではないですか」と言おうと思えば言える世界になるかもしれません。しかし、それで本当に良いのですかという問題があります。これは非常に難しい問題です。
中島 そのため、デモクラシーをどうするかという基本的な問題に立ち返ると思います。私たちはルソー型のデモクラシーに行こうとするのか、あるいはルソーではなく、アーレントが言っていたような、アレクシ・ド・トクヴィルがアメリカのデモクラシーに見たようなデモクラシーに行...