●儒教を平板化することによる、スコアリングの格付化
―― 先生がこの『全体主義の克服』でされている大変興味深いもう一つの議論が、スコアリングの話です。冒頭(第1話)であったように、デジタル全体主義には、自分で情報を自発的に上げてしまうという側面があります。実はそれに似たものが、東洋の伝統の中にあり、それが中国の明の時代にあった「功過格(こうかかく)」です。これは採点表ですか。
中島 採点表です。
―― これはどうやって使われていたのでしょうか。
中島 日本では江戸時代に入りますが、夜寝る前に今日一日を振り返り、良いことをしたら「〇」で、悪いことをしたら「×」を書きます。その「〇」と「×」を足し算、あるいは引き算して、どちらが多いのかを計算して、「〇」が多かったら、今日は一日良かったというような採点表が結構はやります。
―― 良かった・悪かったというのは、儒教的な位置づけの項目ですか。
中島 もちろん儒教的なものです。そのため、親孝行した、あるいは人に善くしたなど、そういったことが中心にはなりますが、非常に民間に根差している面もあるので、使われ方は幅広いのです。
それ自体は、人びとが自分を振り返るキッカケになるという点では、悪くない装置だったのかもしれません。
―― 寝る前にチェックして、反省しましょうということなので、悪くないですね。
中島 しかし、それが今のテクノロジーと結びついて、ある種、自分の格付けに用いられています。例えば、良いレストランを使ったらポイントが高い、あるいは良い大学に行ったらポイントが高いなど、その人に対してそういう合計でスコアリングをしていくことになっていきます。例えば、お見合いの場面などで、自分のスコアを見せあって、スコアが近い者同士で、結婚する・しないを議論したりするらしいのです。しかし、それで本当に良いのでしょうか。
―― このご本の中ですごく印象深かったのが、中国の場合は、支払いもだいたいデジタル通貨で一元管理されていて、いろいろな監視システムで行動が全部管理されます。例えば、親のお見舞いに行ったかどうかで何ポイントや、お金の使い方がどうなのかで何ポイントなど、それが社会的に良ければ良いけれど、ダメな人は、クレジットカードでいうブラックリストみたいなものに載ってしまうと。
これは実際にそうなるとなかなか大変です。確かに今だったら、デジタル通貨が一元管理という形でできてきて、中国のようにどこでも監視カメラがある社会にしようと思えばできます。そうすると、この人は優秀である、あるいはこの人は少し危険分子であるというように、どんどん色分けされていきます。確かに社会的な安全性はそれで確保できるのかもしれませんが、相当危ないというか、住んでいる側からしたら、嫌な社会な気が私はするのですが、先生はその辺をどう感じますか。
中島 私は儒教自体は、もっと幅の広い、懐の深いものだという気がしています。こういう格付け、スコアリングは、儒教の本当に一部な気がするのですが、そこが非常に強調されて、今は新しい儒教的な徳目が推奨されています。しかし、儒教自体はもう少し奥行きのあるもので、そうは必ずしもいかない考え方でもある気がしています。やはり人間と人間の関係に対して、別の示唆を与えてくれるのではないかとも思うのです。だから儒教を平板化してしまった一つの結果なのかなと、実は思っています。
―― なるほど。その平板化について、先生が可能性を見いだせる儒教の方向というのは、例えばどういうイメージですか。
中島 例えば、それこそ孔子を考えてみます。彼は若い人を引き連れて、諸国をグルグル回る、少し危ない人です。でも、新しい徳目を唱えます。例えば「仁」と言っていて、これは新しい人間関係のあり方ですが、既存の社会にフィットするかどうかは分かりません。しかし、新しい水平的な人間関係がそこで生まれるのだという非常に強い思いがあったのだと思います。
ですから、スコアリングになじまない人間関係も、儒教は準備していたのではないかという気がするのです。そのことをあまり忘れないようにしたほうが良いのかなと思います。
●パンデミックにより問い直されるデモクラシーのあり方
―― なるほど。これも今後の東洋哲学と西洋哲学についての話の部分で、また少しお話をお聞きできればと思いますが、新型コロナの問題が起きたことにどういう意味があるかについて、この本の中で先生が非常に興味深いご指摘をされています。新型コロナ自体は未知の今まで知らなかった厄災ですが、これがあぶり出したのは、例えば格差や貧困、差別、あるいは大量消費型の社会です。こうしたずっと問題として分かっていた問題に対して、手当てができていないことが分かってきたことを提起され...