●偶然性に開かれた、王弼の「無」という概念
―― この本(『全体主義の克服』)を読んでいて、マルクス・ガブリエルさんがやはりヨーロッパの方だなと思うのは、一神教のキリスト教の神がいる上での哲学という文化伝統との対峙を相当意識しているところです。例えば、一世代前のデリダなどは、いろいろやってはいたけど、まだ縛られているという発言があったり、われわれがある意味ではあまり持たないイメージのものを非常に問題意識として抱えているのだなと思いながら読みました。そこの違いは、先生も感じたりしますか。
中島 ガブリエルさんと話していて新鮮だなと思ったのは、本当にマルチリンガルな言語空間でモノを考えていることです。そういう哲学者が登場したのだと感じました。
―― マルチリンガルですか。
中島 はい。彼は中国語や、他の言語もできるのですが、そこでモノを考えると、言語が全く違うので、実は一神教的な神を想定しづらいのです。スイッチングしながら、ものを考えると、安定、超越した神がいて、それがこの世界の意味を統べているという発想にはたぶん行かないと思います。最初から根源的な複数性に開かれていっているのが、私たちの世界のあり方なのだというイメージをお持ちだと思います。だから、何としても彼はそのキリスト教的な縛りから出ようとしています。それは彼の世代にとっては、その前の世代をどう乗り越えていくかという、大きな問題ですよね。
―― はい。
中島 何といっても、ハイデガー問題です。ハイデガーを乗り越えないといけません。ハイデガーは非常に神学的な構えの中で展開していった人なので、そうではない道を見いださないといけないというのは、彼のある意味で使命だと思います。
そういう中で、彼は例えば無の形而上学を考えた六朝時代の中国の王弼(おうひつ)を高く評価します。どう評価するかというと、まさに偶然に開かれた哲学を考えているのではないかと評価します。その王弼の「無」は、そのキリスト教的な神とは異なっていて、特に「無」なので、否定神学的な神の構えをしていません。
―― 否定神学はどういう神学なのですか。
中島 否定神学は、人間の言葉では神は捕まえられないので、否定形でしか言えないということです。
―― 「神は〇〇ではない」などの言い方になっていくということですか。
中島 はい。しかし、結局は否定形という形で神を言ってしまいます。それによって、返って強力な神をつくり上げてしまうのです。
―― 例えば、「神は人が分かるものではない」といったイメージですか。
中島 そうです。「人の理解を超えている」というのもそうです。
―― 〇〇はしてはいけないなど、いろいろな定義を逆に否定語でつくっていくイメージですね。
中島 そうです。だから「無」は、その究極です。
―― 何もないということですね。
中島 おそらく、否定神学的な神のようなものを王弼は設定していないと思います。そうではなくて、より関係に開かれた、関係性の中でそれぞれのあり方が吟味される可能性を開いたのではないかと思います。そこには偶然性が非常に深く根ざしていて、その可能性を評価していました。それを彼は自分のシェリング読解、特に後期シェリングの読解に応用したと言っていて、なるほどねと、少し驚きました。
●無根拠に耐えることで複数性へと開かれた状態になる
―― いわゆるヨーロッパ的で一神教的な、神が前提となっていたのが哲学の社会です。いってみれば、現代社会のかなりの部分はヨーロッパ文明をベースにつくられたところがありますが、そこから今の王弼的な「無」の哲学に影響されていくことには、どういうメリットがあるのでしょうか。
中島 やはりその世界が単一ではないということです。複数、違った仕方であり得るということです。これは先ほどのデモクラシーのイメージと同じです。複数の仕方であることのほうが、より良いのではないのかということではないでしょうか。
―― これはもうどちらが良いかという話ではないのですね。東洋的な考え方、西洋的な考え方のそれぞれがあると。
中島 はい。しかも、それぞれが一つにまとまっているわけではなく、破れているイメージです。
―― 破れている?
中島 はい。王弼もある種の体系性を志向しますが、その体系は閉じません。破れているのです。
―― 発展していくということですか。
中島 開かれているということです。
―― 流れていくというような意味で、開かれているということですか。
中島 はい。同じことが、ヨーロッパのさまざまなところで見られます。シェリングもそうですが、閉じないということです。閉じない同士が出会ったら何が起きるかを考えているのではないでしょうか。
―― なるほど。
中島 そこ...