●ギリシアのほとんどの地域では僭主政が続いた?
本村 どんな時代でもそうかもしれませんが、政治のリーダーシップを担う人間を選べないような状態が続くと、混乱や無秩序が続くなかから非常に力強い者が出てきます。そういう者が力ずくで周りを押しのけて権力を握っていく。これが、のちに「僭主」といわれる人たちで、ギリシアのポリスにおける「独裁政」の発生は、その時期になります。僭主が出てくると、この「僭主政」が何年も続くことになります。
―― だいたいどんな地域でも、王権が弱くなってくると、違う種類の権力者が出てくるように思います。例えば日本では、かつて天皇家と藤原家の関係などがそのケースに当たりそうです。アテナイにおける「アルコン(統治者)」は、他の地域と比べると、どういうところが特徴だったのでしょうか。
本村 僭主政は、ギリシア史の根本に関わることです。ギリシアというと、アテネが非常に強調されて、そのなかでは僭主政がなくなって、民主政になっていく。ただ、これはアテネの例であって、他の地域は簡単にそうなってはいません。つまり、全体としてギリシア史を見れば、僭主政がずっと続いているのです。
民主政になったのはアテネが典型ですけれども、他にもポリスがいくつもあるなか、ギリシアのポリスがおしなべて民主政を続けていったとか、それに成功したというよりも、むしろ大方のギリシアのポリスは僭主政が続いたと考えたほうがいいですね。
●広かった古代のギリシア世界、多かった僭主政
―― すると、アテネだけが少し異例だったのでしょうか。
本村 異例というと、アテネだけのように受け取られますが、そうではありません。他にもそういうことができたところもあります。例えば、スパルタなどは、ある意味でアテネ以上に民主政が徹底していました。戦士団としての結束が非常に固く、「ホモイオイ」といいますが、同じ市民として同一の権利を持った1万人ほどの少数者がポリスを支えました。彼らは「民主政」のような言葉は使いませんが、スパルタはアテネ以上にそれが徹底していた、と見られます。
アテネでは僭主政を倒して、その後、民主政が樹立されますが、非常に厳密な言い方では50年ぐらいしか続きませんでした。ただし、最近のギリシア史の研究者は、ポリスの民主政はもっと続いていたと言います。つまり、ペリクレスがいた時ほど完成度の高い、非常に典型的な民主政でなくても、多かれ少なかれポピュリズム的な要素を持つ形態が続いていった。より分かりやすく言うと、「それを踏みにじったのがアレクサンダー大王だ」ということになります。
ギリシア本土を見れば確かにそういう面もありますが、ギリシアのポリスというのは、ギリシア本土だけではありません。シチリアなどでは僭主政のほうがむしろ長く続き、それが当たり前だったという見方ができます。
当時のギリシア世界は、今でいうとトルコの西部のほうに当たるアナトリアや、シチリアもそうだし、マルセイユやニースなどの南仏もそうです。あのあたりは、もともとはギリシア人の植民地としてあったのです。そういうところ全体を見ていくと、やはり民主政よりもむしろ「テュラノス」として、僭主が支配するポリスだったといえるのではないかと思います。
●「僭主政」と「貴族政」はどう違うのか
―― 今後の参考のために聞いておきたいのですが、ギリシアの僭主政は、例えばローマなどの貴族政とはどこが同じで、どこが違うと理解すればよろしいですか。
本村 僭主政は独裁政ですから、貴族政とは違います。貴族政というのは、何人かの集団指導体制になります。
ローマは250年にわたる「七代の王」の時代があって、この時は独裁政にあたります。ところが、最後のエトルリア系の王が民衆にとっては非常によくない、嫌われる存在でした。だから、それを徹底的に排除して、ローマはもう二度と王(レックス)を戴かないということを打ち出しました。それによる政体が、今日われわれが「共和政」と呼ぶものであり、カエサルの時代まで500年近く続きます。
ギリシアの場合、クレイステネスという人が改革を起こして独裁政をなくし、そのあと民主政が続いていきます。
ただ、その前に独裁政について確認しておきたいことがあります。テュラノス(僭主政)について言っておきたいのは、僭主政や独裁政というのは何か悪いイメージがあるけれども…
―― 現代的には、そういうイメージですね。
本村 ええ。それは、20世紀はヒトラーやムッソリーニの影響を受けて独裁政が悪いことになったと言われている、ということです。
●独裁政を制限できたギリシアとローマというシステム
本村 もっと広い視野で考えれば、フランス革命以前の世界はほとんどが独裁政です。どこにも君主がいまし...