●ペリクレスの時代が「民主政の花」といわれた理由
―― 少し話を戻すようですが、ペリクレス時代の前後50年ぐらいがアテナイにおける「民主政の花」と言われていたということですね。ペリクレスの時代が「民主政の花」といわれた理由は、どういうところにあるのですか。
本村 国力が充実していたこと、パルテノン神殿を造ったことですね。だけど、今流に考えていくと、それは自国の国力そのものではなく、デロス同盟の金を使っていたではないかということになる。実際、当時からそれは批判されていました。
ただ、今でもギリシアのアテネに行くとパルテノン神殿があり、その時代のさまざまな建造物があります。そのように形の上でアテネを中心にギリシアを取りまとめる役を果たした功績はあります。いろいろな相互の対立があったのを、なるだけ表立たないようにしたわけです。その意味で、彼は世界史上まれに見るほどの政治家だといわれているのです。
つまり、とりまとめにあたって、民衆に迎合するような形を用いず、ちゃんと自分たちで議論し、民衆を説得して、行くべき方向を説くことができた。そのような形での議論ができる政治家だったといわれているわけです。
●ポピュリズムと僭主政の近い関係
―― シリーズの前半で出てきたペイシストラトスは、民衆の支持を背景に出てきた僭主ということで、いわば「よい僭主」というイメージがありました。今度のペリクレスの場合は、「民主政のリーダー」という言われ方をします。二人を比べて何が違うというのもおかしいようですが、かつての僭主とペリクレスの間にはどういう違いがありますか。
ペリクレスの場合、民主政の仕組みをうまく自分で運営しながら、リーダーとして君臨し続けたというところですよね。先生、これはどのように考えるのがよろしいのでしょうか。
本村 ペイシストラトスの場合は、平民の不満を背景にして、平民の不満を吸収する形で、テュラノス(僭主)になり、僭主政を樹立したわけです。ペリクレスの場合は、別に民衆の不満を背景にしていたわけではありません。もちろん不満はあるに決まっていますが、それが大きな原因ではありませんでした。
彼が言ったのは、今これほどまでに国力を充実させたアテネが、今後ギリシア世界のなかで君臨していくには、どうすればいいかということです。どうやって全体のリーダーシップを取り、平民の意見を聞いていくのか。民衆はすぐに増税反対の方向に走りますから、例えば銀の鉱山を開発したら、それをみんなに配れということになっていく。その時に民衆を説得したテミストクレスも、やはり優れた政治家だったと言えますね。
―― 軍艦を造らなければいけないと言った人ですね。
本村 軍艦を造りました。ペリクレスの場合もそのように、民衆の不満の上に乗ったポピュリズムに走るのではなく、今国家にとって必要なことは何かと説得する技術において、非常に優れていたということです。
民主政というとすぐにペリクレスの名が出てきますが、人によってはテミストクレスのほうが優れていたのではないかという人もいるぐらいです。民衆の不満の上に乗るのがポピュリズムだとすると、ペイシストラトスのほうがむしろポピュリズムに近かったかもしれない。彼らの不満をうまく吸収しながらやっていったわけですから。
●民衆の不満を吸収するか、説得して善導するか
本村 民主政の時代のテミストクレスやペリクレスという人は、民衆の不安に乗っかるのではなくて、むしろ今国家にとって何が必要なのかということで、民衆を説得していった。そういう意味での政治家としては、やはり世界史上屈指のところがあります。なかなかそういうふうにはいかない。一見そういうふうに言いながら、実際は民衆の不満に乗ってやっていることのほうが、歴史のなかではだいたい多いのではないかと思います。
―― そこがまさに民主政の光と影につながっていくわけですね。ペリクレスのような指導者、ないし先ほどのテミストクレスのような指導者がいるときにはいいのだけれども、彼らがいなくなってくると、坂を転げ落ちるように凋落していってしまう。そのような教訓も、アテネは残していくわけですね。
本村 しかし、ペイシストラトスの僭主政・独裁政のいい面というのは、要するに独裁政は確かに民衆の不満をうまく吸収しているのだけれども、自分の判断で決定できるところです。だから賢明な僭主であれば、単に民衆の不満だけに乗らないで、今必要なことをちゃんと考えながらやっていくことができるのです。
ところがそうでなくなってくると、独裁政だろうが民主政だろうが、民衆の不満の上に乗って「ポピュリズム」のほうに走っていく。「民衆の意見などというものは」というと語弊があるかもしれませんが、ローマの元老院...