●アテネの覇権掌握と「デロス同盟」
―― 今までのお話では、アテネ(アテナイ)の場合、僭主政は比較的短い期間だったということでした。民衆の支持を背景にしたペイシストラトスが独裁政を敷いたけれども、息子たちの世代で追放されるような形になってしまった。その後、クレイステネスの改革が(民主政の)形式を整える段階で、ペルシア戦争に突入したために実情が形式に伴う状態になってきたということを解説いただきました。
この後、いよいよペリクレスの時代に入ってくることになろうかと思いますが、ペルシア戦争からここまでの変遷はどのように考えればよろしいのでしょうか。
本村 ここで重要なのは、アテネが実質的な覇権を持ったことです。アテネの歴史をひもとくと、ペイシストラトスの時代に国力を充実させ、クレイステネスの改革があって、ペルシア戦争でペルシアを退けていく。これはアテネだけが戦ったわけではないけれど、ギリシアの中心になったのがアテネでした。
ですから、当然アテネ人がギリシア世界の覇権を握ったということになります。しかし、周りのスパルタなどはもともと軍国主義国家で、それなりの力を持っていました。だから、アテネが覇権を握るということ自体が、あまり面白くないわけです。
また、アテネが覇権を握ることになると、軍事力を充実させることも大事だけれど、財政的なものも充実させなければいけない。そこで、「デロス同盟」というものを結成します。
デロス同盟は、建前としては一旦引き下がった大国ペルシアが盛り返して攻め込んでくるときに備えるためでした。アテネを中心としたギリシアのポリスが、基金をデロス島に集め、いざペルシアが攻め込んできたときには、その財力で対抗する、という趣旨で始まったものです。
ところが、ある段階で、デロス同盟の盟主(リーダー)であるアテネの間に、「戦争が始まらない間は、金を適当に他のことに使ってもいいだろう」と考える者たちが現れます。彼らにしてみると、金庫がデロス島にあるよりアテネにあったほうが、資金を動かしやすい。そこで紀元前454年、デロス同盟の金庫がアテネに移転されます。
●「ペリクレスの市民権法」で、市民身分を閉鎖化
本村 政治的・軍事的に実質的な覇権を握っていたアテネは、このようにして財力においてもギリシアの中心になっていくわけです。でも、これは他のポリスにとっては面白くありません。俺たちのものを集めておいてどうするのだ、という感じです。
―― 結局、ペルシアとの戦争のためにみんなが拠出したものを、アテネは好きに使ってしまったということですね。
本村 アテネにすれば、今は平時でペルシアにはそういう動きがないのだから、運用していけばいいではないかという考え方だったと思います。そういう段階で、「ペリクレスの市民権法」といわれているものが制定されます。紀元前451年に出されたもので、「両親ともアテネ市民でなければアテネ市民になれない」という厳しい規定をつくったのです。
この時代のギリシアのポリスには、いろいろなところから人が集まってきたので、かなり流動的な面がありました。それにもかかわらず、「両親ともアテネ市民でなければアテネ市民になれない」というのは、市民身分というものをかなり閉鎖化した形だと言われています。
この点がまた、ローマとは決定的に違うのですが、ギリシアのポリスはそのように市民身分をなるべく厳格にすることで成り立つ形でした。ペリクレス自身が、この定義を提案して、市民権をつくっていきました。ここに、市民身分が閉鎖化していく一つの端緒があったのだと言われています。
その一方、先ほど言ったデロス同盟の金庫がアテネに移転して、その資金によりパルテノン神殿などを完成させていきます。今でこそあれはギリシアの象徴的な文化遺産になっていますが、アテネという都市国家の国力充実により自分の財力で行ったわけではなく、デロス同盟の資源を使って完成させたわけです。これが、今でもアテネの力をシンボリックに象徴しているわけですが、周りの者たちからすれば、「俺たちの資金だろう」という不満がずっとあるわけです。
●ペロポネソス戦争はいわばギリシア世界の世界大戦
本村 いずれにしても、アテネでペリクレスが市民権法を提案して身分を閉鎖化し、パルテノン神殿の建立や、いろいろな改革を行ったのですが、それはいろいろな意味でアテネの市民たちを鼓舞していくことでした。
「われわれとスパルタを比べれば、スパルタのほうが軍人として優れているように見えるけれども、あれはただ、そのように幼いときから訓練しているだけであって、われわれは自由人として育ちながら、いざ戦いになると、これまでもかなり強かったし、これからもそうしなければいけない」とい...