●その人の社会的属性で人を判断することの危険
―― 先生、(前回までのシリーズ講義「危機のデモクラシー…公共哲学から考える」)どうもありがとうございました。
齋藤 ありがとうございます。
―― 今回、楽しみにしておりました。最初に補足で少し教えていただきたいのですけれど、ハンナ・アーレントについて、『エルサレムのアイヒマン』のあたりでユダヤ社会から総スカンをくらったというのは、具体的にどんな感じだったのでしょうか。
齋藤 ユダヤ人の(場合)は、そのリーダーたちがナチに協力しているのです。だから、自分たちのコミュニティからユダヤ人をその後、強制収容所とか、絶滅収容所に行くわけですが、その選別を行ったりするのです。そのことを、あるいは実際に収容所においても「カポ(Kapo)」と呼ばれるユダヤ人が、直接のコントロールに当たっていたということもあって、そんなに無垢ではなかったという、そのことだけなのです。
ただ、ゲルショム・ショーレムという、ユダヤ神秘主義の大思想家がいますけれど、アーレントに手紙を送って、「あなたにはユダヤの娘として考えてほしいし、ものを書いてほしい」と手紙を書いたのです。
アーレントはそれに直に応答します。私は(ユダヤ共同体を含む)共同体の一員としてものを書いたり、考えたりはしないと返すのです。
―― 素晴らしい返し方ですね。
齋藤 ええ。
―― ヒトラー政権ができて、難民になって亡命して、アメリカで市民権が出たのが1951年です。それだけの間(があった)にもかかわらず、ものすごく強烈な意志ですね。
齋藤 そうですね。何らかの集合的なアイデンティティにおいて人を扱うということ、これが全体主義の暴力です。何をしたか、何を語ったかではなくて、その人の社会的属性が何であるかによって人を判断してしまう。ユダヤ人であるとか、あるいは同性愛者であるとかという集合的な属性で人々を扱ったというのが、全体主義のもっとも悪いところの1つです。
―― なるほど。
齋藤 だから、その集合的なアイデンティティによって自分も他者も拘束しないということです。
―― でも、これ(アーレントの応答)はすごい(こと)ですね。
最近でいくと、私は2024年7月10日からニューヨーク、ワシントン、それからボストンに行き、特にボストンでハーバードとMITでディーンの人たちと話をしてい...