●明治初期に続々と出来上がった「言論空間」
―― 横井小楠もそうですし、横井小楠から聞いた坂本龍馬とか、西郷隆盛とか、みんな建国の父たちを非常に尊敬しますね。
齋藤 そうですね。
―― 伊藤博文にいたっては、岩倉具視が結局もう1回早く帰ってきてくれと言われて、死ぬ間際に伊藤が言っていた共和制を天皇制にして、すごく心配になるくらい、みんなアメリカの建国の父たちを英雄視していた。そこが面白いところですね。アメリカは自由な議論ができる空間をある一定期間やり続けたから、ああいう人たちができるわけですね。
齋藤 そうだと思います。そういう伝統とか、プラクティス、慣行がすでにある程度(政治文化に)蓄積されていたというところは重要なのではないでしょうか。
―― 重要なのですね。
齋藤 例えば、ロシアとかがどうなっているのかとか、日本はどうかとか、いろいろ考えるところがありますね。
―― たしかに、中国は今の習近平(政権)3期目に入って、皇帝政治に戻りましたけれど、きっとあれが中国の本来の形なのですね。自由な言論空間はそうはなかなか許されないと。ロシアも皇帝政治です。日本はアメリカほど鍛えられていないわけですね。
齋藤 どうなのでしょうね。丸山(真男)の議論ですけれど、幕末から明治初年です。明六社とか、いろいろなアソシエーションが雨後の筍のように現れました。
それは何もないところに現れたわけではなくて、例えば昌平坂(学問所)の卒業生のネットワークであるとか、「風説留(ふうせつどめ)」というニュースをお互いに伝え合っていくようなネットワークとか、江戸後期からそういう知的な基盤とコミュニケーションのネットワークがある程度できていました。まさに開国を要求されたとき、内部的にも議論を開きました。そこで、これまで蓄積したネットワークを生かしながらいろいろな結社というか、言論の空間ができたということです。それを明治は潰してしまいました。
明治(時代)は、新聞条例や讒謗(ざんぼう)律とか、上からの統制のほうに入りましたね。あと、価値観としては儒教的な価値観で、横井小楠とも関係のあった元田永孚(ながざね)とか、わりと儒教国家のほうにいってしまいました。価値観において多元的ではなくて、一元化していきました。あのあたりに、その後の日本国家の弱さがあるかもしれません。
―― あのときに...