●「父祖の遺風」と憲法9条の関係
―― 前回は指導者の条件のような部分にも入ってきましたが、 その中で少なくとも独裁的な部分を含めて成功したところとして印象的なのが、「独裁の世界史」シリーズを通して先生のお話に共通している「父祖の遺風」のような歴史意識を持ってやってきた人が指導者に立ったところが比較的成功しているケースが多いことです。そうではなくて、一種進歩主義的な考え方や何らかのルサンチマンを持つような指導者が立ったときには、独裁もたいていひどい形で失敗していってしまうようなパターンがあるのかと思います。
今の日本なり世界を前提として、これまで言われた共和主義的なものを世界史に学ぶといったときに、これからどういうように歴史意識や父祖の遺風のようなものを構築していけばいいかというところになります。これについては、どのようにお考えでしょうか。
本村 今の話を聞くと、どうしても憲法9条問題に関わることを想起します。私は一貫して憲法9条第2項を削除すべきという意見の持ち主です。「絶対悪である戦争を廃絶しなければならない、戦争に訴えてはいけない」ということで、第9条はいいと思います。ところが、第2項で「そのためには」という形で自衛権すら否定しています。
自衛権を否定することがなぜいいのかというと、結局戦力を持たなければ戦争にはならないからです。戦争はいつも自衛を口実に始まると言われますから、自衛権すら否定していれば戦争は始まらない。そうすれば、少なくとも自分たちから戦争を起こすことはない。そういう意見は理想主義的な意味では正しいかもしれないけれども、現在のように一歩先にどんなことが起こるか分からない局面になると、どうなのか。やはり非常事態・緊急事態は、いつもどこかで考えておかなければいけない問題です。
あと何百年かたって人間がもう少し進化すると、お互いに信頼関係が持てたり、疑心暗鬼にならずにお互いの人間性を信頼できる段階に至るかもしれない。そうすれば、そういう考え方でもいいと思いますが、21世紀になりたての今の人間に対してそんなことを求めてもどうなのか。
自分たちさえ自衛権を持たず、「他には攻めていきませんから、他の人も攻めてこないでください」という非武装中立的な考え方を表明すれば、それでいいのか。軍事力を持つ相手が力でねじ伏せようとしてきたら、それは戦争にはならないかもしれないけれども、国家としてはもう完全に従属国家になってしまうわけです。それでもいいのですか、と私はまず一つ言いたいのです。
●自衛権否定から見る日米関係の行方
本村 それから、自衛権を否定するというのは国を守るという気概をなくすことにつながると思うので、実はこれが一番大きな問題ではないでしょうか。テンミニッツTVの世界史の講義の中で政治の話になっていいのかどうか分かりませんが、私の考え方では「自衛隊」を明記する必要はないと思っています。憲法の中で彼らの立場が保障されていないのはかわいそうだという意見もありますが、それよりも今、彼らは今の憲法では否定されています。
それと、戦後の反戦平和思想が日本の中では相当定着している。その中で、自衛隊を明記すると、戦闘行為を正当化してしまうことになる。何かあったときには、これがあるからいいでしょう、ということになるからです。
私などは学生時代に圧倒的にそういう人たちが周りに多い環境で生きてきました。そういう中で、彼らの神経を逆なでするようなことを言うと、改正そのものができなくなってしまう。
だから、今の段階でわれわれに必要なのは、9条第2項を削除することだというのが私の考え方です。なぜかというと、戦闘行為だけではなく、日本人が日本の国を守るという気概を持たなくていいということも憲法が保障していると受け取れるからで、それは非常にまずいのではないかというのが私の立場です。
「父祖の遺風」もそれに関わってきます。今の日本が自衛権すら否定していることは、結局われわれの国をわれわれが自分たちで守らなければならないという「父祖の遺風」に反しているのです。
同盟国があるから安心だという人もいますが、自分で動かない国を助けてくれるようなところはないと私は思います。これに気が付いていない人も多いでしょう。今までの歴史でありますか、当事国が動かなかったのに周りの国が助けた、などということが。それはあり得ないわけです。
でも、日米安保というのは、それを前提にしています。だからアメリカが守ってくれるはずだということですが、彼らのこと以前に、とにかく日本が動かないとアメリカだって動いてはくれないでしょう。
そもそも人間というのはそういうものであって、自分が動かないのに守ってくれるはずはない。そういう単純な道...