●現在の歴史学の潮流
ご機嫌いかがでしょうか。上野誠です。今、ネット配信を通じて勉強をしようという人が増えています。大学でも授業がネット配信になり、どうしたら分かりやすく話ができるかということを、私たちも考えなければならないようになってきました。
皆さんの中には、世界的な大ヒット作、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を読んだ方も多いでしょう。その『サピエンス全史』を書いているユヴァル・ノア・ハラリの先生である、ジャレド・ダイアモンドの歴史書も世界的な大ヒット作品です。
今、世界の大きな歴史、人類史において、どのような潮流があるのでしょうか。20世紀の学問は、あまりにも細分化しすぎてしまいました。より細かく分かれていくわけです。私の専門分野でいえば、例えば『万葉集』のたった1首の歌の解釈でも、論文を書こうとすると、引用参考文献が100を超えるということはザラにあるのです。
ところが、「人間とは何か」「人類とは何か」という関心を、われわれは忘れていいのでしょうか。そういったグローバル・ヒストリー(歴史を大きく眺めること)の大切さを、私たちに教えてくれたのが『サピエンス全史』です。
その他に、リチャード・ランガムの『火の賜物』という本があります。日本ではそれほどヒットしませんでしたが、人類が火を手に入れることによって動物に打ち勝つことができた、という内容です。人類は、それまで食料にならなかったものを食料にし、火を囲んで寝ることによって、例えば捕食関係にあるライオンやヒョウといった動物に打ち勝つことができた。このように火を囲むことで、ともに調理を行い、ともに食べ、そして音楽が生まれ、ネットワークが生まれてきたのだ、という考え方があります。
今のグローバル・ヒストリーは、「人間がどのようにネットワークを形成していったか」ということに関心があるのです。
私が日頃研究しているのは、広い世界の中でも、8世紀の日本です。日本といったらファーイースト、つまり辺境です。その中で花開いた『万葉集』という文学があり、それは20巻4516首ある。8世紀の歌集として4000首以上残っているのは大変なことです。そういうものを研究している。このことを通じて、いろいろなことがまた人類史の中でも見えてきます。
●身体の中に、祖先の知恵の蓄積がある
そのような中、やはり歴史は広く大きく見渡さなければならないということで考えると、例えば次のようなことが言われています。
アフリカで人類が誕生し、数万年をかけて人類が移動していくという歴史がある。いわゆる寒冷地に行った人々はどうなったかといえば、体温が奪われないように、基本的には手足が短く、顔も凸凹が少なく、耳も小さい(耳が大きいと凍傷にやられやすいので)、といったように環境に適応をしてくる。
さらに、日本人の歯は「シャベル型」といい、内側に湾曲しています。歯を見ていただくと分かりますが、歯が内側に湾曲している人がほとんどです。これはかたいものを食べる際に極めて有利だといわれている。それはそうしたU字型のほうが固いものに強いからです。すると、日本人はおそらく森の中で堅果類(堅い木の実類)を食べていた生活が長い人たちの対応だろうと分かる。つまり、身体の中に、その祖先が生きてきた知恵が蓄積されているのです。
歴史というと、「縄文時代がどうだ」「弥生時代がどうだ」「古墳時代がどうだ」「古代前期・後期はどうだ」「江戸時代はどうだ」と、スーッと新幹線が通り過ぎていくように考えがちです。ですが、歴史の一つの捉え方として、「私」の身体の中にもいろいろな歴史があるのです。
よくいわれているのが、尾てい骨は猿のお尻の尾だったとか、あるいは歯がややU字に内側に湾曲しているのはかたいものを食べていたからだろう、などです。あるいは、手足が短くて、顔の凹凸があまりないのは、寒冷地対応なのではとか、また、髪が少しウェーブしているのは、発汗のためにいいということで南のほうの対応ではないか、などさまざまにあります。
●蓄積された知恵にいかにアクセスするか
それらがわれわれの身体の中に蓄積されていて、しかも多様にあるわけです。文化も同じように、蓄積されている。蓄積されている知恵に対して、どのようにアクセスしていくかということの大切さを見なければいけない、という歴史学の一つの流れがあるのです。これは例えば、フランスであれば「アナール学派」といわれ、フェルナン・ブローデルやアラン・コルバンという人たちの考え方であり、そこではいろいろな学者たちの考え方が提出されています。
日本では、柳田國男や折口信夫が、日本人の生活の歴史を、「今ある生活」の中から捉えていくことを考えました。これは日本民俗学です。
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