●『わらしべ長者』で重要なのは一度も不正をしていないこと
こういったこと(交換によるネットワークの形成)を端的に伝えている物語は、『わらしべ長者』でしょう。
『わらしべ長者』では、男が最初は飛んでいたアブを藁(わら)に結びつけて遊んでいたら、子どもが「ほしい」と言ったので、それをあげたらミカンをもらいます。ミカンを持って歩いていると、「喉が渇いて死にそうだ」という人がいたのでそのミカンをあげたら、「ありがとう、君は命の恩人だ」ということで反物をもらいました。
反物を持って歩いていると、「馬が死にそうだ。こんな馬だが、おまえさん、もらってもらえないか。その代わりに、その反物をくれないか」と言われ、反物を渡して馬をもらいます。「死にそうだな」と思いながらも馬に水を飲ませると、馬が元気になりました。
馬と歩いていると、屋敷から人が出てきて、「これから旅に出なければいけないのだが、馬がない。だからその馬を売ってくれないか」と言われます。そこで馬を売ると、「私はこれから旅に出るので、屋敷を君に貸そう。もし私が3年以内に戻ってきたら屋敷は返してくれればいいが、3年以上戻ってこなかったら君にあげるよ」と言って、馬に乗って出かけていった。3年たっても主は戻らないので、屋敷は男(わらしべ長者)のものになった、という話です。
この話は、交換に交換を重ねて、藁とミカン、ミカンと反物、反物と馬、馬と屋敷というように、次々に交換するものは高価なものに変わっています。ですが重要なことは、一度もわらしべ長者は不正をしていないということです。つまり、相手が欲しているものならば、この交換条件で成り立つということです。
世の中の売買とはそういうもので、坪単価が1万円の土地であっても、坪単価が500万円や1000万円の土地であっても、需要があれば売買は成り立つのです。大切なのは、その中で不当なことをしてはいけないということ。相手が持ってきたお金を奪った挙げ句に土地を渡さない、といったことはいけないということです。
実をいうと、「ダイヤモンドに価値がある」「金に価値がある」「兌換券に価値がある」「土地に価値がある」といっても、それは相対的な価値です。“金”というものに、もともと一定の価値があるわけではない。人間社会の中で、“金”というもの、“土地”というもの、“銀”というものに価値を与えているだけなのです。そのような中で、交流をしながら人類は生き延びてきたわけです。
●物量では測れないものの大切さ
人類が生き延びてきた理由で一番重要なのは、極めて自然界の中では弱い立場にあるけれども、ものを交換して大規模に食料をやりとりする、ということなのです。人類以外でも、例えばひな鳥に対して親鳥が食べものを与える、子ザルに対して親ザルがものを与える、さらにコミュニティの中で食べものを若干、何かの交換条件の下に分け与えるということはあります。しかし、人間社会のように大規模に食料を融通し合うということはありません。
食料を大規模に融通し合うためには、虚構を信ずる想像力がなければいけません。「良いことをすれば、良いことが起きますよ」「人を助ければ、助けてくれますよ」「われわれは仲間なのだから助け合いましょうよ」といった考え方がなければいけないのです。
私の祖母・上野きくのは、70を過ぎて独りでやってきた新興住宅地でも、小さな畑の前栽を通じて、もののやりとりをしながら人的ネットワークを作りました。最後は心臓病で1年ほど療養していましたが、そのときも多くの人がお見舞いに来てくれて、調子の良いときには部屋にも入ってもらって話をしていたので、孤独ではなかったと思います。
経済とは「ものの交換」、いわゆる互酬性のある交換から発達している側面があるのです。現在は、「鉄の生産量が、車の生産量が、取引高が……」などと言いますが、われわれの幸せはそういったものでは測れないのかもしれません。庭で作ったミョウガを持って行って「おいしいですね」と言われた喜びや、ミョウガをあげた人が持ってきたおまんじゅうがおいしかったという喜び、そういったことを通じて仲間ができて「梅干しの作り方を教えてくれ」と言われたりすることが、人間の幸せにとっては大切かもしれない。
ものが不足しているときには、例えば「ここに橋を架ければ、両岸から自由に往来ができるようになる」といったことや、ものがたくさんある、お金がたくさんあることは極めて重要なことでしょう。ところが、ネットワークがある、ネットワークを作るということは、ものだけの量ではないのです。
●目に見えないものに価値がある
そのようなことがあって、私はむしろ、近年のグローバル・ヒストリーに注目しています。ジャレド・ダイアモンドやユヴァル・...