●コロナの時代に学ぶべき「ルール」の成り立ち
―― これらは、講義の前半に出てきた「自由」が関わってくる問題だと思います。今の日本人からすると、自由というのは非常に当たり前のもの、いってみれば天与のもので、誰しもが持っていて享受できるという前提に立っています。だから、それが守られるには守られる前提があるのだということが分からない、と。
本村 そうです。今回のコロナ禍で分からなくなっていることの一つがそれです。バンジャマン・コンスタン(フランス自由主義の思想家)の『近代人の自由と古代人の自由』という書籍において、古代人の自由は「自分の上に主人がいない」、つまり奴隷ではないという意味で基本的に自分の意志で行動できるが、公事になると必ずしもそうではない。そういうことの決定においては、それなりの見識を持った人の意見にみんなが従うということでした。
分かりやすくいうと、みんなが自分のやりたいことをやればいいというのが今までのわれわれの考え方であったけれども、このコロナの時代になっていろいろな面で自粛要請や規制が出てきているわけです。非常事態・緊急事態のときには、互いにコンセンサスを取り、公事の前ではある程度自分の自由を犠牲にしなければいけないということです。
近代以降、代議制を取るようになり、面倒臭いようなことは全て政治家に任せ、個人的な自由を享受すればいいと考えてきたわれわれは今、特に戦後日本において初めてというほどその自由が脅かされている。そのことに戸惑っているというのが現状ではないかと思います。
―― 自粛というのは文字通り、自分で粛然とせよという意味です。日本の場合、法律上で強権的に止める手立てはないのが現状なので、どちらかというと「自粛」頼みでやっていますし、今の段階では皆さんも、ある程度それを受け入れて自粛モードになっています。
そこに本来、自由をそれぞれがどう考えるかという問題があるということを意識しておかないと、「自粛警察」と言われるように、互いが監視し合うような姿になりかねません。自粛と自由というのは非常に難しい問題ですね。
本村 そうですね。典型的にはフランスなどがそうでした。フランス革命の経験では、最初のうち相当ひどい経験もしましたが、フランス革命からもう200数十年たっています。その中で、フランスは法律によって物事を定める、それも独裁者が定めるのではなく、いわゆる法的なルールが出来上がったので、それは守るべきなのだと言います。だから今回のコロナの話にしても、結局彼らは法律でルールを決めた。とにかく「自粛」ではなく「禁止」です。外出なら外出を禁止して、それを守らなかったら罰則を設けるわけです。
日本人であれば、そのことを非常に苦痛に感じるだろうけれども、それは逆にいうと、法のルールはかくあるべきという意識が日本人にはまだ希薄だということです。
日本の場合はそうではなく、みんながなんとなく道徳律として「人に迷惑をかけてはいけない」など、いろいろなものを持っているために、むしろ法律で決めるよりも自粛というかたちでやったほうがうまくいく。実際にこれまではある程度うまくいったわけです。
●ヨーロッパの外出禁止から分かる日本の自粛との違い
本村 日本は法律では規制しなかったけれども、逆にいうと自粛に頼ったことで、「自粛が解除されました」というと、今度はみんなパッと何か許されたように思っているわけです。
「法によって取り締まる。だから罰則を設ける」というのが法のルールであるということを、われわれ日本人はもう少し学習しなければならないのではないかと思います。というのは、自粛は確かにある意味では素晴らしいことだからです。
塩野七生氏が『文藝春秋』に、外出禁止令の出されたローマの街について書いている記事がありました。どうしても出たいときには、自分の出るべき用件、自分がどういうところに住んでいるかなど、全てを書類に書いて、求められたらそれを見せるようにしなければならないそうです。
そのようなヨーロッパの外出禁止は、日本人にとっては非常に厳しく見えるけれども、逆に言えば、彼らはやはりきちんとした合議制に基づく法によって取り締まられるのだから、中国の独裁的な取り締まり方とは違うわけです。だから、それによって取り締まりがあってもルールを守るのは当然だという考え方を、われわれ日本人はいろいろな意味で学ぶべきではないかと思います。
日本では法のルールに対する了解ができていないから、罰則を設けることなどに対して反発が起こることも考えられます。そのあたりは、自粛という形でうまくいったところはいいけれども、こう長引いてくると、やはり法によって規制しなければならないような部分もだんだん出てくるのでは...