●代議制によって生まれた「個人の時間」
(前回、独裁、共和政、民主政の)三つの要素について説明しましたけれども、共和政と民主政の違いということになると、代表者を選ぶ「代議制」という発想が、どうも古代人あるいは前近代全体に通じることかもしれませんが、その時代にはなかったようです。
やはり代議制は近代になってからのことです。みんなが政治参加したとしても、人口の規模が大きくなっているし、地域の規模も広くなっているため、直接民主政のようなものはうまくいきません。そこで代議員のように、選挙で選んだ人たちが市議会議員や国会議員という形で職務に就き、政治を動かすかなりの実務を彼らに任せるということが行われるようになりました。
そのような代議制の「恩恵」といっていいかもしれませんけれども、何がそれによるメリットかというと、そういう人たちに政治を委ねることによって、実は一般の庶民にはずいぶん時間ができるわけです。もちろん自分の生活のためにいろいろな仕事はありますが、政治に直接携わらなくていい。
かつてのギリシアのポリスの民主政のように直接政治参加すると、聞こえはいいかもしれないけれども、自分の生活を享受するような時間はなくなってきます。近代になってから代議制というものがきちんとしてくることで、人は個人の時間を有効に使うことができるようになるのです。
●近代人の自由と古代人の自由の違い
本村 最近、私が毎日新聞で書評をした中に『近代人の自由と古代人の自由・征服の精神と簒奪』という本がありました。著者はコンスタンというフランス人で、フランス革命からそれ以後にかけて生きた人ですが、タイトル通り自由を比べている部分がありました。
同じように「自由」といっても、古代人の自由は端的にいえば「奴隷でない」ということである。主人に仕えてはいないから、自分一人で意志の決定ができるし、個人として実践ができる。ただ、本当に自由だったかということになると、国家や公事(おおやけごと)の決定に関しては、かなり制約や圧力がありました。中心的な人物やそういう人たちの集まりが決めたことを承認あるいは追認するような形でしかなかった。本当に民衆一人一人の意見が通ることがあり得ないのは、いわば当然のことだったのです。
つまり、古代人ないし前近代の人たちの自由は、奴隷でないから自分で自由に行動はできるけれども、事が公事や国家の問題、戦争や外交の問題などになってくると、ある種の歴然とした権力者がいて、その意向に従わざるを得ない。そのような形での自由だったわけです。
ところが、近代人の自由というのは、先ほど言ったように代議制を取ることによって自由になった時間を自分の一つの権利として享受できるという自由が生まれてきたわけです。
われわれ近代人の自由はそういう形であり、今まさにコロナの問題で脅かされているのは、そういう自由がなくなりつつあるということなのです。今のわれわれはかなり規制されている。例えば、旅行したり、どこかに出かけたり、人と会ったりすることも規制されています。しかし、人と会ったり他のところに出かけたりするのは、当然の気分転換というか、人間として当たり前のことであるわけです。
●「ホモ・ルーデンス」=「遊ぶ人」としての自由
本村 私は、人間というのはホイジンガーのいった「ホモ・ルーデンス」であると考えています。ホモ・ルーデンスは「遊ぶ人」です。それが基本だと思います。あえていえば、「ホモ・ラボランス」(ラボランスは「labor」の言葉でも分かるように「働く人」)というのは、人間のあり方として二次的な存在だと思います。
人間というのは最初の段階で狩猟採集生活をしていましたから、本当に必要なときだけ狩りをしたり、必要な植物を集めてきたりすればよかった。それがだんだん、食物を栽培するようになったり、家畜を飼うようになったりしてくると、一日の中でそれを維持する時間が必要になってきた。そして、きちんと働かざるを得なくなってきますが、自分の好き勝手に遊んでいたいというのが本来のあり方です。
そうすると、近代人の自由というのは、代議制を取ることによって私人あるいは個人としての自由な時間、つまり遊びの時間を使えるという自由を得たということです。一つには古代の人たちの頃よりも物質的に豊かになったことがあると思いますが、そういうことができるようになりました。
しかし、コロナ禍の中では、いろいろな形で感染が広がったり、社会全体としてそれが脅かされたりしています。それを解決するためには独裁政がいいのか、全体主義がいいのか。そのような問題ともつながりますが、一定程度、ある種のことに関して公的な規制を受けなければならなくなっているところです。
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