●長期戦の歴史から見えてくる戦争の不可思議
皆さん、こんにちは。現在、ウクライナ戦争についての問題関心というのは、私達日本人の多くの人々にとって、次のようなことではないでしょうか。すなわち、この戦争はいつ終わるのだろうか。あるいはどのような形で終わるのだろうか。
この問題に関しては、歴史における時間という非常に重要な問題が含まれております。
戦争の長期化を予想する人も非常に多いということでお気づきのことだと思いますが、歴史をひも解いてみますと、たしかにイギリスとフランスの間の100年戦争であるとか、あるいはウェストファリア条約の締結に至る30年戦争であるとか、あるいは7年戦争、プロイセンのフリードリヒ2世と、オーストリアのハプスブルク朝、マリア・テレジアとの間の領土問題から生じた、言ってしまうと18世紀の世界大戦というべき戦争、これらは7年間続いたわけです。
こうした数字で示される戦争はいかにも大規模なものであり、そしてつい戦争の長期性、あるいは持続性というものを、必要以上に連想しがちであります。申すまでもなく、100年戦争といっても、毎日大規模な武力衝突がフランスのそこかしこで繰り広げられていたということではないわけです。
そういう衝突が、毎日持続的に行われたわけではない以上、この100年戦争という言い方に違和感を持つ人もいるかもしれません。その反面、「天下分け目の戦争」と呼ばれた、日本における関ヶ原合戦でありますが、関ヶ原合戦は場合によっては戦国時代が再来するような大戦争に発展する可能性を誰もが予想しておりました。
そして、少なくともこの戦争は月の単位、ひょっとして年の単位にまたがるのではないかという長期化の予想した人たちも多かったわけで、言ってしまうと、それは戦国時代の再来です。ちょうど、応仁の乱における東西の軍の対峙のように全国を巻き込むような、そういう月から年へと発展していく大規模な戦争になることも予想されたわけですが、実際の結果は、皆様ご承知のように、わずか1日足らずで終わってしまいました。
この戦争について、全く独自の戦略観と独自の時間感覚で見ていた、例えば九州の黒田如水、あるいは中国から四国にかけては火事場泥棒的に領土を増やしていこうというような発想で、「東における徳川家康、西における毛利輝元」と、やや格違い、やや貫禄不足は否めないのですが、毛利輝元の思惑などもひっくり返してしまったわけです。
フリードリヒ2世とマリア・テレジアの戦というのは、ちょうど7年間かかったわけですが、7年かかるほどの戦であったかというと、もっと早く決着がついたかもしれません。
ところが、彼らのそもそもの予想をある意味では超えて、その戦場がインドであるとか、ブラッシーの戦いというのは高校世界史で皆さんが勉強されたクライブです。東インド会社初期のクライブがフランスと戦うといった、フランスとイギリスの植民地を巡るインドの争奪戦という思いがけない並行現象を生み出しました。またこれは、北米などにおいても、特にイギリスとフランスの対決を招いて、フランスが広大なルイジアナ植民地を手に入れるということにつながる争いが生じたほどでございました。
したがって、戦争というのは目論見と違って何が起きるか、何が発生するかが分からないところがあり、これが歴史にとってたいへん不可思議なところであります。
●ウクライナ戦争はイラン・イラク戦争と近い要素を持っている
最近のことでいうと、1980年に生じた、1979年のイラン・イスラム革命の後のイランとイラクの戦争です。このイラクとイランの戦争を「イライラ戦争」と言うことが多いのですが、このイラン・イラク戦争は、実質的に8年、戦争がありました。8年間、かなりの密度で消耗戦が繰り広げられました。言ってしまいますと、この8年戦争と比べた場合、フリードリヒ大王たちの7年戦争も、そうそう長かったと感じられるということでもないのです。
現代において、実際に8年間の消耗戦を繰り広げた戦争があるというのは意外なことかもしれませんが、実際の事実としてあるわけです。つまり、現在のウクライナ戦争というのは、最新兵器と情報のかく乱戦の応酬という点においても、このイラン・イラク戦争に近い要素を持っているかもしれません。
そして、湾岸戦争をもう1回振り返ってみますと、湾岸戦争は多国籍軍との関係について限定した場合には、約1ヶ月で終結したということです。1991年1月に開かれて2月には終結しており、1ヶ月で終結した、ある意味であっけない戦争だったということにもなります。
その後に生じたイラク戦争という第二次湾岸戦争はどうだったかというと、この戦...