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イスラエルを理解するには苦難の歴史を遡る必要がある

国際地域研究へのいざない(2)苦難の歴史とイスラエル成功の原動力

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授/テンミニッツTV副座長
情報・テキスト
テオドール・ヘルツル
紀元後、古代イスラエルがローマ帝国に滅ぼされてから、ユダヤ人は20世紀まで国を持たないまま、実に二千年近く放浪生活を余儀なくされてきた。19世紀にナショナリズムの高まりの中でユダヤ人差別が激化すると、イスラエル国家を求めるシオニズム運動が盛んになった。ナチスによる凄絶なホロコーストを乗り越えて1947年に独立を達成したイスラエルは、その苦難の歴史の中で知識に投資して道を切り拓く術を学んできた。こうした歴史が今日のハイテク分野でのイスラエルの成功につながっている。日本はイスラエルへの進出に関して世界に大きく遅れを取っているため、早急に関係を深めていく必要があるだろう。(全8話中第2話)
時間:11:20
収録日:2020/04/07
追加日:2020/11/21
≪全文≫

●古代から現代まで続くイスラエルの苦難の歴史


 さらに、古代イスラエルの歴史的な背景も、こうした認識を強化しています。古代イスラエルは、紀元前1000年前後から存在していましたが、紀元後にローマ軍によって完全に滅ぼされました。その結果、数百万人の人々が1900年間も流浪の旅を強いられることになるのです。彼らのことをディアスポラと呼びます。イスラエル人にとって、この1900年の歴史は、迫害、弾圧、殺人、差別の連続です。

 19世紀に入るとシオニズムという考え方が出てきます。パレスチナ、つまり現在のイスラエルがある場所は、シオンの丘と呼ばれ、古代にはミルクとハチミツが溢れたすばらしい地域といわれていました。そのシオンの丘に帰るというスローガンを掲げた運動をシオニズムといいます。この運動を指導した人が、テオドール・ヘルツル(Theodor Herzl)というオーストリアに暮らしていたユダヤ人です。イスラエルでは、主要な道路の脇には、彼の銅像が建っています。

 この人は、現地民族に溶け込めると思って、必死に勉強に取り組んでいました。しかし、ドレフュス事件が起こり、ユダヤ系のフランス軍兵士が疑いを掛けられた挙句、町中を引き回されて大きなスキャンダルとなりました。その顛末を見て、どれほど地域社会、国民社会に入ろうとしても、ユダヤ人だとして差別されてしまう。シオンの丘に帰ってユダヤ人の国を作る必要があると考えて、シオニズム運動を世界的に展開したのです。これはどちらかというと政治的な働き掛けで、故国を作ろうという動きです。

 もう一人は、実際に現代イスラエルを建国したダヴィド・ベン=グリオン(David Ben-Gulion)です。この人は、ポーランドで暮らしていました。ロシアなどと同じように、ポーランドでは、ユダヤ人差別によって虐殺が起きました。これから逃れて、イギリス支配下のイスラエルに密入国して、ほとんど雨の降らない乾ききったイスラエルでオレンジを育てて生計を立てながら、独立運動に従事していました。そして、イギリスが戦争で疲弊して国連に丸投げした契機を生かして、イスラエルは独立を達成しました。

 このようなさまざまな人々の苦労がありましたが、最も惨憺たる悲劇となったのが、ホロコーストと呼ばれるヒトラーが指揮したユダヤ人大虐殺です。第二次世界大戦の末期に激化しましたが、ナチスにつかまって殺されたユダヤ人はおよそ600万人だと推定されています。ナチスは、当時のヨーロッパにいた1100万人のユダヤ人を全て殺せと指令を出したようです。銃弾が足りないので、毒ガスで大量に殺戮しようとしたのが、アウシュヴィッツのような強制収容所です。

 以上のように、悲惨な歴史を経て、イスラエルは1947年に独立しました。独立後、ヒトラーの大虐殺でボロボロになって生き残った人々数中万人が、この新しく建国されたイスラエルに殺到したのです。しかし、初代首相に就任したベン=グリオンは、彼らの存在を最初は認めませんでした。なぜ棒でも石でも取って、ナチスを相手に戦わなかったのか、と非難したのです。

 戦おうと思っても、それはほとんど不可能だったのです。1940年前後には、ヨーロッパの二十数国の警察が、ユダヤ人に対して誇り高く黄色のリボンを付けることを求めました。警察はナチスを恐れてそのような命令を出したのです。多くのユダヤ人がリボンを付けたのですが、黄色いリボンを付けた人々は皆捕まって、ゲットーに叩き込まれてしまったのです。ゲットーでは多くの人が病気にかかり亡くなっていきました。着るものも満足にない悲惨な生活でした。

 するとナチスは、ボロボロになった人々に対して、楽にしてやるから列車に乗れと命令しました。列車に乗って、ある場所に着くと、体を洗うので服を脱げと命じられました。そして、シャワー室に行くと、そこで毒薬をかけられて、殺されてしまったのです。こうしたエピソードからも分かる通り、戦うチャンスはなかったのです。

 それでもベン=グリオンは、なぜ棒を取って戦わなかったと非難したのです。ポーランドのある収容所で戦った人が何十人かいたのですが、彼らは戦後長く記念日に称えられています。対して、命からがら逃げ延びた人々は、いわゆる正当な権利も認められませんでした。ところが、ナチスのアドルフ・アイヒマンという人が南米で捕まって国際裁判が開かれた際に、裁判を有利に進めるために、称賛はしなかったものの避難民の復権を認めたという歴史があるのです。非常に辛い歴史です。

 ですので、こうした悲惨な歴史を二度と繰り返したくないというのが、徹底的に技術を磨き、国力を身につけ、成功したいという主要な動機のようです。


●過酷な状況の中でハイテク人材が次々と生まれてくる


 国家戦略として、自力で国を守れる最強国家になりたいと...
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