●現代インドに今も後遺症を残すイギリス植民地統治
第二次世界大戦後、インドは1947年に独立しました。その過程で、ジャワハルラール・ネルーという素晴らしいリーダーが、3つの理念を打ち出しました。1つはイギリス植民地主義からの脱却、2つ目は平等を重視した社会主義、そして3つ目は宗教を政治に持ち込まないという理念です。また、一党による独裁ではなく、多くの政党や地方社会と協議をしながら、政治の方向性を定めていったのです。
モディ首相は、こうした理念を全てひっくり返しました。イギリスの植民地主義の後遺症などではなく、とにかく競争して勝てば良いという考えです。さらに、社会主義や計画経済はとんでもないもので、自由主義経済での競争を奨励しています。加えて、多様な国民の協議による統治から、選挙での勝利でその是非を問うなどの考え方を打ち出しているわけです。
インド独立後、60年以上にわたって、上のような国民会議派の伝統のもとで統治されてきました。こうした伝統は、イギリスによる19世紀以来のインド植民地統治から生まれたものです。19世紀の半ばのインドで、セポイの反乱が起こりました。これは、東インド会社が雇ったインド兵が、搾取的な待遇に不満を持ち、反乱を起こしたものです。こうした動きを抑えようとして、イギリス本国が進出してきました。東インド会社に統治させておくのも問題なので、本国が直接統治する方が良いという結論を、1877年に出しました。この年に、インドは正式に植民地化されました。
当時、イギリスはヴィクトリア女王の時代で、彼女をインド帝国の皇帝に据えました。しかし、イギリスによるインド統治は、キツネが巨大なゾウを従えるという構造なので、さまざまな手練手管を用いました。基本は分割統治です。
当時のインドには、「マハラジャ」と呼ばれる統治者がいました。彼らは税を納める必要はなく、巨大な宮殿を持っていました。イギリス政府も、マハラジャの子弟を教育するために、ケンブリッジやオクスフォードに留学、寄宿させていました。さらに、政治運動にもある程度寛容で、国民会議派の出現も許容していました。
しかし、一方では厳しく統制していた側面もあります。独立間際には、パキスタンをインドから分離させるよう画策しました。パキスタンやベンガル人を含めた地域が全て大インド民族として一体になると、非常に強大な国家となってしまいます。イギリスはこうした状況を放置したくなかったのでしょう。さまざまな手法を用いて分割統治を実現し、インドをだましだまし統治したという歴史があるのです。
●独立後のインドを次々と襲う苦難
こうした植民地支配は、独立後のインドにも影響を与えています。ネルー首相は非同盟主義を掲げ、戦後パクス・アメリカーナを形成し、世界を指導するアメリカから距離を取り、個人的に以前から尊敬していたソ連の方式を導入しました。そして、米ソ対立の仲介をするために、中国の毛沢東や、インドネシアのスカルノ、エジプトのナセルなどと協力する姿勢を取りました。しかし、この試みはものの見事に中国に裏切られたのです。
中国は中印国境を越えてインドに侵入し、インド軍を打ち負かしました。さらに、チベットに関する問題もありました。中国政府はチベットを中国に組み込んだために、それに反発した指導者のダライ・ラマ14世がインドに亡命しました。インドは彼を匿ったために、国境紛争に発展したのです。
こうした経緯で、この非同盟主義は破綻し、その後ネルーはさまざまな批判を受けながら亡くなりました。後を継いだのは、彼の娘のインディラ・ガンジーでした。しかし、間もなくインディラは大変な強権政治をするようになりました。その最中、彼女の後を継がせようと考えていた次男のサンジャイを事故によって亡くしました。彼女自身はその後、暗殺され、その後を長男のラジブ・ガンジーが継ぎ、首相に就任しました。ところが、彼もまた暗殺されてしまったのです。
このように非常に複雑な歴史を経ているのですが、もう一つの問題として、隣国との関係があります。独立時にイスラム系の人が多いパキスタンと分かれ、その後ベンガル人が多いバングラデシュという国がパキスタンから分離しましたが、インドは依然としてこの両国と仲が悪いのです。背景には、深刻な宗教対立があります。これは結局、イギリスのしたたかかつ狡猾な分割統治の後遺症です。このような重い歴史を背負いながら、今日のインドは一所懸命発展に向けて努力しているのです。
●日本はもっとインドを理解しなければならない
日本との関係に目を向けてみましょう。インドが世界のリーダーになる可能性があるならば、日本としても大いに関係を深め、学び、さまざまなことに一緒に取り組んだ方が良いのです。おそら...