●明治維新は世界近代史の奇跡
もう一つ、地域研究の例として、幕末から維新にかけての日本を取り上げます。これも私が長いエッセイを書いて、テンミニッツTVで何度もお話しさせていただきました。
明治維新は、日本近代史の奇跡といわれていますが、日本だけではなく世界近代史の奇跡なのです。なぜあのようなことが可能だったのでしょうか。例えば、世界の革命の歴史の中で、あれほど短期間で、ほとんど血も流さず、見事に体制を変換させたのは、世界史上でも珍しいのです。
当時は地政学的に帝国主義が世界を支配していた時代で、多くの国が欧米の植民地となりました。ところが、日本はアジアの中ではタイと並んで、珍しく植民地になっていない国です。しかも明治維新が終わって30年前後で、日本は世界の列強の一つとなりました。国際連盟体制下での列強は、アメリカ、イギリス、フランス、日本などです。ドイツは入っていません。こうした国の一角を占めていたのです。そこまで急速な発展を遂げた理由は、日本の奇跡として世界中の関心を集めています。
もう一つ、日本の奇跡として挙げられるのは、第二次世界大戦後の復興です。アメリカ相手に無謀な戦いをして、原爆を2発落とされて、焼け野原になった国が、約20年後にはアメリカに次ぐ経済大国になったことも、奇跡として受け取られています。
今回は前者の、封建制から近代国家に生まれ変わった幕末維新の日本を取り上げて、どのように理解すれば良いか、解説していこうと思います。
●植民地化の波が押し寄せた時、日本は行き詰まっていた
明治維新を成し遂げた当時の日本は、帝国主義の波が徐々にアジアに押し寄せつつある最中でした。この時代には、欧米が急速に台頭して、アジア各地に植民地を広げました。アジアだけではなく、大西洋を囲む地域もアメリカの台頭で植民地化されていきました。
アジアに関しては、1840年から42年にかけて中国でアヘン戦争が起きました。さらに、その結果残った遺恨を蒸し返すように、1856年にはアロー号事件が起きました。それからしばらくして、インドは植民地化されました。
日本に対する植民地化の影響は、ペリーの来航とともに訪れました。第一次来航が1853年で、その翌年の第二次来航の際に、開国条約を結ばされました。この艦隊を率いたマシュー・ペリー提督の経歴は、日本ではあまり知られていません。彼はアメリカ・メキシコ戦争を戦った猛将だったといわれています。
1846年から48年にかけて、アメリカとメキシコの間に戦争が起こりました。それまでのメキシコは、かなりの大国でした。しかし、1846年アメリカ軍は、ベラクルス港のメキシコ軍の前に敵前上陸しました。そこから奥地に進軍し、アメリカはサンディエゴとサンフランシスコという大きな港を含む、カリフォルニアを獲得しました。これによって、アメリカは太平洋に威令を発することになりました。他にも、テキサスやアリゾナも、メキシコの領地でしたが、この戦争で一度に奪い取っているのです。こうした帝国主義の波が、日本を包みかけていました。その先頭に立ったのが、猛将ペリーだったのです。
当時の日本は260年間続いた鎖国政策の真っ只中にあり、その間全く戦争に参加したことがありませんでした。その支配枠組みは、経済的に徳川幕府が絶対に有利になる仕組みでした。他の国と同様に、当時の日本はコメを中心とした農業経済でした。国力や各藩の大きさは、石高で示されていたわけです。幕府はその当時400万石の直轄領を持っており、親藩を含めると一説には800万石近くという規模になるそうです。日本全体で3000万石だったので、石高を基準とすると当時の日本の領土の25パーセントと、圧倒的な支配を確立していました。
ところが、徐々に商品経済が浸透してくると、それに比例して幕府の経済力は衰退しました。当然ながら、商品経済の浸透によって消費が増えてくると、コメの価値は相対的に下がります。それに伴い、コメに基づく幕府や各藩の財政も悪化していきます。そうした最中にペリーが来航したのです。当時の幕府や各藩は、そうとうな問題を抱えていたのです。
●長州藩と薩摩藩もペリー来航時は困難な状況だった
さて、明治維新を推進したのは長州藩と薩摩藩です。
江戸時代が始まる前に関ヶ原で合戦がありました。東軍と西軍に分かれて戦い、徳川家は東軍を率いて、西軍は後に長州藩を治める毛利家が率いて、後に薩摩藩を治める島津家はそれに従ったという構図になっています。関ヶ原の戦いで西軍についた毛利家は、当時約120万石近くあった領地を30万石に削減されました。誇り高き毛利家の人々は、なんとかこの状況でも生き延びるために、家臣の俸禄を大幅に削減し、藩を挙げて狭い領土の端から端の山の中まで、新田を開発しまし...