●ペリー艦隊の第1次来航
全てはどこから始まったのでしょうか。ペリー艦隊来航です。1853年7月8日、戦艦サスケハナ、ミシシッピ、サラトガ、プリマスというペリー艦隊4隻が東京湾に近づいてきました。
相模湾を東に進み、昼頃、東京湾の入り口に一時停船します。この時点でマシュー・ペリー提督は、船の大砲に実弾を装填させました。その後、湾の奥に艦隊を進め、午後5時頃、浦賀沖に投錨しました。老中・阿部正弘が艦隊来航を知ったのはその夜です。浦賀から早船による報告が江戸在勤の浦賀奉行・井戸弘道の屋敷に着いたのは午後10時です。井戸はその報告を直ちに阿部の屋敷に持参しました。
●情報収集と幕府の対応
ペリー艦隊が来るという情報は、実は幕府も掌握していました。なぜかというと、アヘン戦争後の1842年から毎年、オランダが「オランダ別段風説書」を幕府に提出していたからです。この風説書によって、幕府はペリー来航の目的も、武器・装備のことも事前に知っていました。
そこで浦賀沖に投錨しているサスケハナという旗艦に対し、浦賀奉行与力・中島三郎助は番船をこぎ寄せました。しかし、ペリーの通訳は、高官でなければ交渉しないと言ってきます。それに対して、中島は「冗談じゃない。高官は外国人には会わないのだ」と反論しました。中島は大変立派な人で、その後、長崎海軍伝習所に参加し、造船・航海技術をマスターして、幕末日本の洋式軍制改革の指導者となりました。残念ながら、箱館戦争に参戦した後、五稜郭で戦死しました。
阿部老中は、幕閣で議論しました。国書を受け取るということは、開国するということで鎖国の国禁を犯すことになるからです。しかし、この禁を「犯すは遺憾なれども、軽率にこれを拒絶し兵端を開き、国家を危機に陥れるはわが国の長計にあらず」ということで、幕閣の間で国書を受け取る決定をし、浦賀奉行には、書簡を浦賀で受け取れと指示しました。そうして、浦賀奉行・井戸石見守弘道、戸田伊豆守氏栄が9日に久里浜の陣屋で大統領の国書を受け取りました。国書を渡したペリーは目的を達したので、「条約締結のため、来年4月か5月に再訪問する」と言い残して去っていきました。
幕府はたくさんの情報源から、この情報も手に入っていました。例えば、第2次ペリー来航で交渉団のトップに立つ林大学頭が編纂した全345巻の『通航一覧』や蕃書調所(後...