●長州の藩是転換
こうした流れにより、長井雅楽によって一世を風靡した航海遠略策は非難され、破綻します。吉田松蔭の一番弟子の久坂玄瑞が、公武合体を名目に「長井は外夷との交易の勅許を得ようとする者だ」と批判したのです。長州の開国策は攘夷論の朝廷を誹謗するものだと朝廷からも批判され、長井は遠ざけられることになります。結局彼は、文久2年(1862年)6月に失脚し、翌年2月に切腹しました。
長州は御前会議で失地回復を図るため、公武合体開国容認から、条約破棄・攘夷実行に路線を転換しました。このように、長州は意見がぐるぐる変わるので、幕末の歴史を分からなくしている要因だと思います。こうした転換の先頭に立っていたのが、吉田松陰の弟子である久坂玄瑞でした。
●吉田松陰の黒船乗船は失敗に終わる
それでは、吉田松陰とはどんな人物だったのでしょうか。彼は萩藩毛利家の家臣で杉百合之助の次男として生まれました。その後、明倫館の兵学師範になりますが、学問知識に対する意欲の激しさは、狂気のようであったとされています。
嘉永4年(1851年)には、江戸出府の命を受け、その後、佐久間象山の塾に入塾します。現実を直視する学問に興味を持ちました。
松陰は水戸、仙台、米沢、会津若松など東北地方諸藩への、流儀修練を目的とする10カ月間の遊歴を許可され、さまざまな思想家に会いに行きました。しかし、出発間際に申請書に欠陥があることが分かり、それを無視して出立を強行すると、脱藩とされてしまいました。結局、それが原因で、吉田家は潰されてしまいます。
佐久間象山を訪ねた際に、ペリーの2度目の来航のニュースが松陰の耳に入りました。松陰は兵学の師範として他国を知る重要な機会だと感じます。嘉永7年(1854年)2月ごろ江戸湾に来航した後、下田に向かうということで、松陰はそれを追いかけていきます。そして、前日に見つけておいた漁船を無断で漕ぎ出し、アメリカ艦隊に近づいていきました。漁師は警戒して櫓杭を外していたので、ふんどしの帯をいわき付けて漕いでいったのです。
そうしてミシシッピ号に船をつけますが、ポーハタン号に移されます。漢文の手紙で交渉し、通訳のサムエル・ウィリアムズと議論するのですが、ウィリアム中佐はこの交渉を受け入れませんでした。夜中に海岸へ送り返されたのです。翌日に捕まるのは武士の面目に立たないということで、松陰は早朝に自首し、野山獄へ送られました。
野山獄とは、長州の山の中にある牢屋です。松陰はそこで囚人たちにさまざまなことを講義し始め、非常に人気が出ていきます。松陰のもとに集まる塾生が増えたため、叔父がつくっていた松下村塾を借りて、活動を始めました。
●国策に関する意見書を発表するも死罪となった吉田松陰
しかし、松陰は次第にエスカレートしていき、さまざまな国策に関する意見書を発表していきました。その中には、宮中の大原重徳を長州に呼び出し、みんなで尊皇攘夷をまとめ上げて京に攻め上がろうという計画や、誰かを暗殺しようという計画などもありました。
そうこうしているうちに、野山獄に再度下獄していた松陰に江戸送りの幕命が届きました。これは、安政の大獄による処罰の一つでした。小伝馬町の牢獄にて厳しい尋問が行われたのですが、尋問の間、松陰は次第に調子を良くしていき、役人を論破していきました。そこで役人は様相を変え、「これからは詰問するのではない。君の意見を聞きたい。君は一体、何をしようとしていたのだ」と尋ねます。つまり、「時務を聞かせよ」というわけです。
そうすると松陰は、大原重徳を西へ連れてきて革命を起こそうとしていることや、老中・間部詮勝を呼び出して暗殺しようとしていることなどを、得意になって話してしまいました。すでに幕閣がこうした画策を知っていると思ったのです。しかし、幕閣はこの計画を知らなかったので、間部暗殺について追求します。結局、松陰は島流しではなく死罪となりました。
●吉田松陰の同志と弟子たち
松陰にはたくさんの同志や弟子たちがいました。例えば、代々藩医をしていた家の出身だった久坂玄瑞は、後に蛤御門で戦死します。高杉晋作は、後に病死するのですが、死ぬ時、「妾と一緒に死なせてくれ」と言ったことが知られています。伊藤博文は、本当に要領も人柄も良い人でしたが、最後には安重根に殺されました。
そんな中、山県有朋だけ生き残ります。彼は生涯、学問にコンプレックスを持っていました。長州では下級武士にも武芸を奨励していたので、山県は刀よりも槍を選択しました。すると、高杉が奇兵隊に彼を引き入れ、良い場面で良い成果を上げたことで、次第に地位を上げていきました。最後には、山県は内閣総理大臣や陸軍大将などを務め、日本の陸軍を仕切るまでになりました。...