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鳥羽・伏見の戦いが明治維新の大勢を決めた

明治維新とは~新たな史観の試み(17)幕府の終焉

島田晴雄
公立大学法人首都大学東京理事長
情報・テキスト
鳥羽・伏見の戦い
王政復古の大号令を受けて、新政府は倒幕の勢いを強めるが、旧幕府軍の反撃が開始される。鳥羽・伏見の戦いは、明治維新の大勢を決めるものであった。島田晴雄氏は、こうした歴史の事実を確認することが、日本の未来を考える契機になると指摘する。(全17話中第17話)
時間:12:37
収録日:2018/07/18
追加日:2018/12/20
≪全文≫

●小御所会議と慶喜の辞官納地


 王政復古を受けて、慶応3年12月9日(1868年1月3日)夕刻、朝廷で小御所会議が開かれます。もはや封建時代ではないということになったのですが、当時10代の明治天皇、公家衆、諸大名が出席しました。議定である中山忠能が、将軍が大政奉還し将軍職を辞任したので、王政の基礎を固めるためにこの会議を開くのだと、開会を宣言しました。

 公家側からは、慶喜に官位の返上と領地の返納を求めるという議題が出ました。そうすると山内容堂は「慶喜が召されていないのは不公平ではないか」と発言します。そして、「この暴挙をあえてした2~3の公家の意中は何か。幼沖の天子を擁して権力を私しようとする者である」、と岩倉具視を糾弾したのです。

 岩倉は、当時、孝明天皇を毒殺したとまで言われていました。岩倉は「御前でござるぞ。幼き天子を擁してとは何事だ。無礼にもほどがある」と反撃しました。大久保利通はすかさず「辞官納地をして慶喜は誠意を見せることが先決だ」と主張します。ところが、山内は譲らず、大口論となりました。倒幕派はそろそろ一時休憩しようということで、休憩に入りました。

 会議に出席した部下の岩下方平が西郷隆盛に助言を求めます。その西郷が次のように言います。「匕首(あいくち)1本あれば、片付きもんそう。岩倉公によく伝えてくれ」。つまり短刀一本で相手を刺すほどの覚悟があれば、問題は片付くだろう、と言ったのです。この発言が芸州藩から土佐藩に伝言され、そして山内の耳に入りました。再開した会議ではこれを聞き沈黙を守り、終始、岩倉のペースで会議が進み、辞官納地が決定しました。この西郷の一言が決定的だったといわれています。

 新政府は慶喜に対して、辞官納地を要求しました。しかし、新政府内の公議政体派は、慶喜に新政府の参加を求め、倒幕派に反撃します。慶喜は、辞官納地の猶予を求めた上で、わざと衝突を避けるため、大坂城に退去しました。

 そして、平時であれば公議政体派と幕府派の大名がはるかに多数であるため、松平春嶽や山内らの公議政体派は、慶喜の側近と協議して、領地返還の条件を緩和し、慶喜を臨時政府の議定に任命する手順を決めました。これは三職会議でも了承されました。つまり、慶喜の避戦方針で、新政府倒幕派は逆に追い詰められていったのです。


●慶喜、大阪城からの巻き返し


 その時、慶喜は何をしていたのでしょうか。彼は、陸軍の大部隊を伴って、二条城にいました。大坂城から江戸に指令を発し、陸軍の大部隊を二条城に呼び、1万数千の大軍を集結させたのです。京都には薩長派の大軍も集結しており、一触即発の情勢です。そこで、山内により建設的な提案が行われ、偶発戦争が回避されました。これにより、慶喜は殺気の満ちた京都を去る決意をします。

 慶喜の大坂行きについて、大久保は、慶喜が大坂城を根城にして、親藩・譜代を結集し、持久戦を取って、陰で朝廷に働かき掛けることで勢力挽回を図るのではないかと予測しました。全くその通りになったのです。

 慶喜は、既に京都から江戸に指令を発して、幕府陸軍と艦隊に来援を命じ、大坂には、艦隊や陸軍が続々と集結しました。そして、慶応3年(1867年)12月16日に、6カ国公使を引見します。その席では、小御所会議の結論を避難し、徳川政権は正当であると改めてアピールしました。岩倉や西郷に対する、外交的な勝利です。

 納地については、徳川の領地を全て取り上げるという大久保らの主張がうやむやとなり、結局、徳川家と諸大名が所領の一定割合を朝廷の費用のために献上するという話にすり替わりました。こうなれば実害はありません。慶喜は、朝廷からの辞官納地の諭書にためらわず了解しました。

 こうして結局、辞官納地は骨抜きになりました。結果として、慶喜は内大臣を辞して前内大臣となりました。また、慶喜が諸大名会議を主宰し、最高執権者として、幕府・諸大名から朝廷への費用献上の分担率を取りまとめることとなりました。つまり、小御所会議でピンチに陥っていた慶喜が、19日後の12月28日には見事、完全に挽回したのです。


●西郷・江戸での挑発、戊辰戦争


 その間、江戸市中が大変なことになっているという噂が流れました。治安が極度に悪化していったのです。10月14日の大政奉還で武力討伐の大義名分を失った西郷は、同10月、関東郷士の相楽総三に、江戸市中を撹乱し、幕府を挑発せよと密命を出したのです。彼らは江戸の薩摩藩邸に送り込み、放火、略奪、暴行、殺人等、非合法活動を展開し、騒動を起こしました。

 相楽は若くして尊皇攘夷活動に参与していましたが、薩摩の過激派と知り合い、西郷に雇われたテロリストです。夜な夜な江戸の近辺を徘徊し、乱暴や狼藉者を見付けて金品を提供し、薩摩屋敷に誘い込んで、総勢500人...
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