●小御所会議と慶喜の辞官納地
王政復古を受けて、慶応3年12月9日(1868年1月3日)夕刻、朝廷で小御所会議が開かれます。もはや封建時代ではないということになったのですが、当時10代の明治天皇、公家衆、諸大名が出席しました。議定である中山忠能が、将軍が大政奉還し将軍職を辞任したので、王政の基礎を固めるためにこの会議を開くのだと、開会を宣言しました。
公家側からは、慶喜に官位の返上と領地の返納を求めるという議題が出ました。そうすると山内容堂は「慶喜が召されていないのは不公平ではないか」と発言します。そして、「この暴挙をあえてした2~3の公家の意中は何か。幼沖の天子を擁して権力を私しようとする者である」、と岩倉具視を糾弾したのです。
岩倉は、当時、孝明天皇を毒殺したとまで言われていました。岩倉は「御前でござるぞ。幼き天子を擁してとは何事だ。無礼にもほどがある」と反撃しました。大久保利通はすかさず「辞官納地をして慶喜は誠意を見せることが先決だ」と主張します。ところが、山内は譲らず、大口論となりました。倒幕派はそろそろ一時休憩しようということで、休憩に入りました。
会議に出席した部下の岩下方平が西郷隆盛に助言を求めます。その西郷が次のように言います。「匕首(あいくち)1本あれば、片付きもんそう。岩倉公によく伝えてくれ」。つまり短刀一本で相手を刺すほどの覚悟があれば、問題は片付くだろう、と言ったのです。この発言が芸州藩から土佐藩に伝言され、そして山内の耳に入りました。再開した会議ではこれを聞き沈黙を守り、終始、岩倉のペースで会議が進み、辞官納地が決定しました。この西郷の一言が決定的だったといわれています。
新政府は慶喜に対して、辞官納地を要求しました。しかし、新政府内の公議政体派は、慶喜に新政府の参加を求め、倒幕派に反撃します。慶喜は、辞官納地の猶予を求めた上で、わざと衝突を避けるため、大坂城に退去しました。
そして、平時であれば公議政体派と幕府派の大名がはるかに多数であるため、松平春嶽や山内らの公議政体派は、慶喜の側近と協議して、領地返還の条件を緩和し、慶喜を臨時政府の議定に任命する手順を決めました。これは三職会議でも了承されました。つまり、慶喜の避戦方針で、新政府倒幕派は逆に追い詰められていったのです。
●慶喜、大阪城からの巻き返し
その時、慶...