●薩土盟約と土佐藩の大政奉還建白
そうして、大団円に近づいていきます。慶応3年(1867年)、坂本龍馬と後藤象二郎が土佐の藩船夕顔丸で長崎から兵庫へ向かいました。京都では、慶喜および四侯会議が開催中です。後藤は、土佐藩主の父である山内容堂にこの会議に呼ばれていました。
この船内では、龍馬が新たな政治綱領を後藤に提示しました。1、大政奉還、2、議会開設(万機公儀に決す)、3、官制改革(有為・有力人材に官爵に付け、無実の官を除く)、4、条約改正、5、憲法制定(無窮の大典選定)、6、海軍創設、7、陸軍創設、8、通貨政策(外国と平均の法を設ける)です。これが船中八策です。
これを受け、後藤は土佐幹部や薩摩の小松帯刀に、大政奉還論を提案しました。薩摩は慶喜が大政奉還など拒否するに決まっていると感じ、それを拒否したら倒幕も辞さないと考えていました。しかし、倒幕のための上京出兵と将軍職の廃止を建白書に書く約束を山内が渋ったため、これは実現せず、薩摩と土佐の盟約は解消となります。
結局、土佐は大政奉還の建白書を単独で慶喜に提出しました。慶喜はそれを受けて同年10月13日、上洛中の40藩の重臣を京都二条城に招集し、大政奉還の諮問を行いました。その結果を、翌日朝廷に提出し、上表の受理を求める。朝廷上層部は困惑しましたが、後藤と小松らの働きかけで、10月15日に、慶喜同席の朝議で勅許がなされました。これにより、慶喜に大政奉還勅許の沙汰書が授与され、大政奉還が成立しました。
大政奉還が成立したことで、倒幕派は倒幕の名目が消えてしまいました。しかし、上表では、将軍職辞任には触れておらず、将軍は依然として武家の総棟梁であるという地位は揺らぎませんでした。
●倒幕の密勅と慶喜の征夷大将軍辞職
薩摩の藩論も、武力倒幕で一致していたわけではありませんでした。大久保利通は倒幕反対論を封ずるために、岩倉具視を通じて倒幕の密勅の降下を求めました。
この密勅は三条実愛邸で薩摩の大久保と長州の広沢真臣に授けられました。「朕はこの賊を討たずして…」という内容です。「賊」とは慶喜のことです。しかし、どうやらこの密勅には天皇の印も何もなく、偽勅ともいえる代物だったようです。
ところが、この倒幕の密勅を受け取った西郷は、薩摩藩兵3000を率いて4隻の軍艦に分乗し、鹿児島を出発して、京都に向かいました。...