●優柔不断が命取りになった、善良なルイ16世
―― 本講の「独裁政」というキーワードでフランス革命を見た場合、非常に興味深いことがあります。当初は革命的雰囲気というよりも増税に対する反感があり、むしろ特権階級がそれを持ち出しておきながら、すぐに崩れていった。当初は穏健な立憲君主制を目指す勢力もあれば、急進的な勢力もあった。にもかかわらず、革命はジャコバン派に牛耳られ、やがてロベスピエールの独裁により、粛清がどんどん続く形になっていく。なぜ、そんなことになってしまったのかが、お聞きしたいことの一つです。
フランス革命の流れを簡単に整理すると、三部会の停滞に抗議して第三身分による国民議会が1789年6月につくられる。同年7月14日にバスティーユ監獄の襲撃があり、国民議会がさらに革命気運を盛り上げるなか、国王一家がオーストリアに亡命しようとします(ヴァレンヌ逃亡事件)。これで、国王を支持していた人々の間に「なんだ、俺たちを見捨てるのか」と不満が高まったと言います。このあたりの流れについて、先生はどのようにお感じになりますか。
本村 ルイ16世という人は、人間としては非常に善良な人で、悪意を持っていろいろなことをやっていたわけではないのです。また、時代の流れとして、啓蒙思想も教養の一種ですから、それが民衆より先に王侯貴族たちのほうに到達し吸収されていたことも、忘れてはいけないでしょう。
そうして穏健な形での「立憲君主政」という思想が最初に出てきて、それが下層の人たちにも広がっていく形を取ったのだと思います。人間として非常に善良だったルイ16世は、そういう考えや貴族・民衆の意見を、ある程度取り入れようとしていました。
彼の悪いところは、優柔不断な性格です。人の意見に左右されやすいところがあったため、誰かが何か言うと「ああ、それはいいアイデアだ」と言い、別の誰かが違うことを言うと「それもいいアイデアだ」と言って、結局自分で何かを決めることができなくなっていました。
最終的には彼も、立憲君主政のほうに移行していかなければいけないという動きは了解していたはずです。ところが、実際にその立場に置かれ、だんだん革命が進行していくにつれ過激派も出てくる、といったのっぴきならない状況になった時、その優柔不断な性格が災いしたのではないでしょうか。
実際、マリー・アントワネットはオーストリアのほうから来た女性です。ヨーロッパの王侯貴族は、いろいろな意味でつながりがありました。
―― 姻戚関係が縦横にあって、皆さん親戚のような感じだったのですね。
本村 ええ。だから、どこかに逃げれば自分たちは安泰だろうというような、安易な考え方があったのではないかと思うのです。イギリスの革命でも、そういう前例はあったのですが、フランス革命は全体として非常に大きくて過激な動きでした。
●「現場」から逃げたルイ16世と徳川慶喜の違い
本村 彼がこのときにフランスに踏みとどまっていたら、ずいぶん違ったのではないか、と私は思います。日本人だからできる比較ですが、徳川慶喜と比較すると、非常に分かりやすくなります。
ルイ16世は、立憲君主政的な者への理解もあり、自分がその座に就かなくても誰か自分の息子なり親族なりが就けばいいという考え方でいたのかもしれません。ところが、彼はどこかでそれを捨てたのか、あるいは優柔不断のため誰かにそそのかされたのかして、亡命しようと企ててしまいました。
徳川慶喜の場合も、鳥羽伏見の戦いの前に大坂城から逃げ出します。あれが一般には評判が悪く、「武士の風上にも置けない」といわれたりしますが、日本でフランス革命を研究している人から見ると、慶喜の判断は非常に正しかったというのです。
―― 徳川慶喜が正しかったとは、どういうことですか。
本村 彼は結局、現場から逃げ出したわけですが、もし彼が陣頭指揮を取っていたら、日本の内戦史上、相当大きな戦いになっていただろうといわれています。では、徳川慶喜自身は、それをどこまで意識していたのか。当時、日本で大きな内乱が起これば、おそらく諸外国が付け入ってくることが、彼の念頭にはあったのだと思います。それで、彼は自分から権力を投げ出し、「大政奉還」という方向に向かうわけです。
日本でももちろん上野のお山の戦い(上野戦争)や会津での戦い(会津戦争)がありはしましたが、結局それほど大きな流血を引き起こす内乱には至らなかった。そのことが、明治維新の中で、フランスなどに比べるとスムーズな権力移譲に向かわせたのです。
フランス革命の場合、ルイ16世があそこで亡命に走ってしまったことが、民衆の怒りを買った。それで彼自身も断頭台の露に消えてしまうわけだし、その後のロベスピエール派によってフランス国内での悲惨...