●カトリックから絶対王政への動きの下で躍動した力
―― これまで「独裁の世界史」では、ギリシア、ローマ、ヴェネツィアを見てまいりました。今回はフランス革命をめぐるお話を承りたいと思っています。
世界史的に整理をしてみますと、フランス革命の前には絶対王政があり、その前はローマ・カトリックのローマ教皇の支配が王権に超越するような時代が続いていました。ローマ教皇の強かった時代から絶対王政に移管する流れについては、独裁政、共和政、民主政という今回のテーマでいくと、どのように整理できるものでしょうか。
本村 まず、「前近代」といっていいのでしょうか、絶対王政以前はある意味で立憲君主政や立憲王政ではない、つまり国王あるいは最高権力者が法にしばられない存在としてあったわけです。現代でも北朝鮮などはそれに近いところがあるので、現代に残る前近代国家のようなものといえるでしょう。
当時の最高権力、国王の王権に当たるものをどこが握っていたかというと、中世では一方にローマ・カトリック教会があり、一方に神聖ローマ帝国がありました。この聖俗二つが、常に強弱をつけながら対抗している姿でした。とはいえ基本的には、ローマ・カトリック教会の力が非常に強かったといえるでしょう。
近代に近づき、土地所有貴族を中心とした古い貴族だけでなく、商業・交易活動や生産業によって富を蓄えた新興ブルジョワジーたちが登場してきます。そういう新しい動きの中で絶対王政が生まれます。これは、古い勢力と新しい勢力の均衡が取れ、どちらも突出できないでいるジレンマに乗じて、絶対王政的な支配が力を持ったというのが、17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパではないかと思います。
●「独裁」の事態が長く続いていく「独裁政」
―― そうすると、もともと力の強かった貴族たちが弱くなっていくのに比例して王権が強くなるように見えるということですか。
本村 ええ、そうです。
―― その均衡の中で、市民層(ブルジョワジー)が勃興してくるのですね。そう見ると、この時代を独裁政と考えたほうがいいとすれば、どういう位置づけをすればよろしいのでしょうか。
本村 基本的には、やはり立憲君主ではないことが大きい。近現代では、独裁政とはいっても、どこかしら立憲君主政の枠がはまっています。しかし、それ以前の絶対王政期では、下のほうを見るとバランスが取れているとはいえ、法によってしばられない権力者を上に戴いていました。
あるいは、法によってしばられていても、有無をいわさずに独裁的な力を発揮したのが、ローマのカエサルなどの時代でした。本来、ローマは共和政の伝統が強く、カエサルの時代も実はそれが続いていました。しかし、そういう慣習やしきたりを押しのけて、自分の主張や勢力を押し通していく存在になりました。
結局、前近代国家というのは、基本的には最高権力者があまり法にしばられていないということです。ただ、それでもいろいろな形で規制はありました。ローマの場合は共和政という伝統が規制として働いたわけです。そういうことはあっても、いわばそれを踏みにじっていくのが、「独裁政」という形です。
ある程度優れたリーダーであれば、自分の意思をある程度通して物事を実現することはあります。それが「独裁」なのですが、独裁「政」というように、あえて「政治」の語をつければ、それはある種の永続性を伴います。ですから、立憲君主以前の権力者のスタイルは、さまざまな規制はありながらも、最高権力者が自分の意思を押し通していった。その強弱の違いではないかと思います。
●民衆の意見を取り入れて練り上げられたルソーの思想
―― これからフランス革命を見るに当たっては、フランス革命が起きる前に、ルイ14世という有名な君主の存在があります。王朝の最盛期を築いたといわれる人で、もっとも独裁政や絶対君主のイメージに近いかもしれません。
フランスはその後、財政状況が悪くなり、財政改革でまずは特権階級に税金をかけようとした。特権階級はこれに反発して、「三部会」という伝統的議会を開くように要求する。三部会は、聖職者、貴族、平民で構成されるもので、身分ごとに1票ずつの議決権を持っていました。
ですから、聖職者と貴族が組めば平民を押さえこめるという思惑だったのが、だんだん状況がおかしくなっていったのがフランス革命だったのではないか。そう思うのですが、このあたりを、独裁政が崩れていく流れとして、先生はどのようにご覧になりますか。
本村 まず、ルイ14世の時はそうでもなかった啓蒙思想が、ルイ15世や16世の時代になると広まったことが一方にあります。法的なこともありますが、民衆の中に「自分たちで物事を決めるのだ」という動きや「王権であっても、民衆の意思をきち...