●ロベスピエールはカエサルの真似をしようとした
本村 フランス革命の場合にも、急進派が出てきました。ロベスピエールという人は、古代ローマ時代にカエサルがやったことをやろうとしたのだろうと思います。
ただ、カエサルは反対派を処刑したり、そういうことはあまりしていません。カエサルの場合、敵対勢力であってもある程度自分に従順な意思を示しさえすれば許すということを、比較的何度も行っています。そのあたりの賢さが違うというか、ロベスピエールの場合は若くて血気にはやったのかもしれないし、時代の状況が違っていたからということもあるでしょう。
―― 確かにフランスの場合は、戦時下というか、対外的な関係でいうと完全に孤立して劣勢に置かれた状況ではありますね。
本村 ええ。カエサルの場合も、対外的な外国勢力が入ってくる云々ではないものの、共和主義者との戦いはまだ続いていきます。彼の敵対勢力への態度としては、カトー(小カトー)という一番の共和主義者への例を見るといいでしょう。カトー(小カトー)は戦いの中で亡くなってしまうのですが、カエサルはそれを非常に悔やみます。何らかの形でカトー(小カトー)を捕まえて、「一線を退く」ということさえ言ってくれれば、カエサルへの恭順を示さなくても、許すつもりでいたのです。むしろ彼にとっては、それが理想だったと言われます。
ところがフランス革命の場合は、反対勢力を処刑にしたりしてしまう。しかも、反対する勢力全てに「反革命」のレッテルさえ貼れば、それで処刑できるとしました。そこまで行ってしまったのは、いったいなぜだったのでしょうか。
●フランス革命のモデルとなったのは共和政から帝政期への移行期のローマ
―― ジャコバン派の仲間同士でも、最後は殺し合いになっていくわけですね。
本村 ええ。そこで感じるのは、カエサルが始終言っていた「クレメンティア(慈愛)」であり、“ゆるす”という感覚です。それは、ローマ人全体にそういうところがありました。
―― まさに慈しむ愛ですね。
本村 ええ。そのあたりが、共和政から帝政期への移行の時期のローマと、フランス革命との大きな違いではないかと思うのです。
だけど、彼らにとっては、その時期のローマがやはりモデルになりました。だから、フランス革命ではいろいろな役職をつくり、「コンスル」などのローマ時代の名を付けていくわけです。彼らにも、共和政から帝政期への移行が、自分たちの行っている革命の一つのモデルになるのだという意識はやはりあったのではないかと思いますね。
―― ローマとフランス革命の対比というところでいいますと、ローマの場合にはどちらかというと現実的といいますか、いろいろな状況を動かすために変えていくという順だったかと思います。フランスの場合は、むしろ啓蒙思想から流れてくる「理想」を掲げてやっていって、どんどん先鋭化してしまうような側面もあったかと思います。
このあたりでもローマとフランスは違うと思うのですが、いかがでしょうか。ローマが理想をもてあそぶようなことをしなかったのが、この違いを生んだというところになりますか。
本村 でも、やはりローマの場合は共和政を否定するということは、建前上はカエサルもしないし、アウグストゥスやその後の皇帝たちも、表立って自分は皇帝だとは言わないですから。
―― あくまで枠組みは共和政と。
本村 共和政の枠組みは守る形を取っています。
●フランス革命が築いた「自由・平等・博愛」の枠組み
本村 それから、ローマ市民についても注目したほうがいい。当時の人たちにとってローマ市民であるということは、その前に自由人であるということでした。自由人としてのさまざまな権利もあれば、ローマ人としての権利にも守られました。
例えば、パウロという人はキリスト教徒がいろいろと迫害され始めた時期にいましたが、ローマ市民権を保持していたおかげで助かったことが多い。ローマ市民権を持っている人は、たとえそういう形で追及されても、きちんと裁判にかけなければいけないという決まりがあるからです。
それは、今でいえば「人権思想」に当たるようなものかもしれない。ともあれそれがローマ市民、あるいは自由人であるローマ市民という形で、彼らに対する一つの守りといったものになっていました。
つまりローマの場合は、大半が自由人であるけれども、奴隷も実際にいるわけです。ところが、フランス革命の場合は全ての人間が、少なくとも平等である。もちろん近年のジェンダー論に照らすと、「それでも女性は差別されていたではないか」と言われていますが、それはまた別の問題でしょう。
全ての人間が人権を持つというのは、個人の財産や身体の絶対的な自由など、さまざまなものが保障される...