●護民官と独裁官のバランスが守ったローマの共和政
―― スターリンの政権下でも、5カ年計画が事実以上に成功したと喧伝されていました。ちょうど1929年の大恐慌以降、「資本主義はもうダメだ」といった雰囲気があり、「これからはやはり計画経済がいいのではないか」という流れにもなっています。
ヒトラーの場合も、ナチスが政権を取って以降の大成功を見た日本が、「ああいう政策運営がよいのではないか」と影響を受けて、国家統制色を強めていったようなところもあります。あの時代の、スターリンの経済政策やヒトラーの経済政策の成功について、どのようにお考えでしょうか。
本村 それはマクロ経済学的な立場でいえば、まったく経済を自由にさせておいた段階があり、それによる資本主義国での行き詰まりがありました。それが1929年の世界恐慌になったりした。そういう例が周りに転がっていると、当然ながら計画経済や、中央権力を高くして行うという考え方が出てくる。それは、経済学の中でもマクロ経済学では、そういうものをある程度導入しているわけですよ。
これはその後、繰り返し起こってくることであって、自由にし過ぎるとどうしようもないし、それが行き詰まってくると管理力を強めることも、時には必要になってきます。そのバランスを常にどこかで考え、非常事態になればある種の独裁政も仕方がない、そのほうがうまく運用できるのだ、というシステムを、われわれがなかなかつくってこられなかったことがあります。
ローマの共和政500年の歴史で、非常事態のときには独裁政を認めていたのは、一方でローマが「護民官」をつくっていたからです。護民官というのは「民を護(まも)る」のが役目で、この制度もやはり非常にうまくできていると思います。
一方で非常事態のときだけ期限付きで独裁官を設けながら、権力者が民にひどいことをしてくると、それを護民官の手でやめさせることができる。護民官には、何ぴとも手を触れてはいけないとされました。それくらい彼(護民官)の動きは絶大なものであったわけです。
だから、政治のシステムとして、ローマは500年共和政を続けていきつつ、大国になっていった。そこには今さらながら、片や独裁官があり、片方で護民官があったということの意味を考えさせられます。ところが、今の日本ではそういうものをなかなかつくれません。
私など、今のような非常事態のときは半年ぐらい(期限付きで独裁官を設けても)いいのではないかと言いたくなります。民主主義だけが叫ばれている世の中でそれが必ずしも機能していないという事態は今回独裁政を考える上でも大きなことです。
●ハラリが説いた「デジタル独裁政」は深刻な問題
本村 ユヴァル・ノア・ハラリという人の書いた『サイエンス全史』と『ホモ・デウス』の書評をしたのですが、『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』(河出書房新社)という本も書評します。
その中で出てくるのですが、ITとバイオテクノロジーが非常に発達し、AI(人工知能)が物事を考えたり決定したりするようになると、そちらのほうがはるかに効率よく的確な答えを出す時代が来る。かといってそちらに任せてドローンやロボットにばかり働かせると、人間の大量失業も起こってくる。
そうなったときにどう対応すればいいのかというので、いろいろな考え方が出ていますが、ハラリ氏は「デジタル独裁政」という言葉を使っています。デジタル的なものや人工知能的なものが独裁権力を振るう世界です。
かつて人類は神々の声を聞き、その指令内容が絶対的なものとして聖書に書かれていました。それが、やっとある時期から人間の頭脳で考えることがいいのだ、と考えるようになってきた。その間、私は3000年ぐらいあったと思いますが、ハラリ氏は数世紀だと言っています。紀元前1000年前後のところで大きな人類の境目があって、ようやく「人間の時代」が来た、と私は思っています。
ともあれ、現在の人間はかつての神々の声のようにデジタル独裁を受け入れる時代に入りつつある、と彼は書いています。独裁政の特徴の一つに、自分で決定をしなくて済むところがあります。ある人に全部委ねれば、ある意味楽なわけで、あとはその独裁者がどのぐらいいいか悪いかということです。かつてプラトンも哲人皇帝を肯定して、非常に優れた人ならば独裁者が政治を行ったほうがいいのだという考え方を持っていました。
今までの歴史の中では独裁者の行った悪い面が強調されがちで、特に20世紀になって民主主義や共和政が高く評価されるようになってからの独裁者というのは、批判される形が多くなっています。しかし、ある時期は成功しているから、そのときは皆が拍手をしているわけです。
でも、実際にデジタル独裁政が起こってきたときには...
(ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之翻訳、河出書房新社)