●「共和政ファシズム」というローマの伝統
―― 先生がお出しになったこちらの『教養としての「ローマ史」の読み方』では、「共和政ファシズム」という言葉をお使いになって、印象深いことを書かれていました。
例えば「20世紀に独裁政ファシズムを経験しているので、ファシズムと聞くとすぐムッソリーニやヒトラーといった独裁者を思い出すけれども、もともとのファシズムという言葉には独裁の意味はありません」というところで、「もともとは権威を象徴する言葉に過ぎなかった」と書かれています。先ほど先生がおっしゃった、飾り用の「ファスケス」ですね。ローマでは上級公職者の従者が斧の周りに棒状の木を結びつけたファスケスを掲げ持っていた。それが権威の象徴となったのだということから、「共和政ファシズム」というイタリア的な背景を語り出しておられます。これは、どういう言葉の使い方でいらっしゃるのでしょうか。
本村 「共和政ファシズム」という言葉を使ったのは私が最初で、欧米の学者なども使っていないですね。ローマは、いろいろな意味で称えられるけれども、一方で独裁者を生まないような制度で500年の共和政の伝統をずっと守ってきたわけです。そういう社会でありながら、対外的にはかなり完全な軍国主義国家であり、とにかく武力によって制圧するという姿勢でした。国内的には共和政だけれどもね。
現代のわれわれは「ファシズム」というと、「独裁政」とすぐ結びつけてしまう。しかし、歴史をさかのぼって考えれば、ローマ国家そのものが領土を最も拡大していく成長期においては、共和政の伝統を守りながら、対外的には軍隊を鍛えて、外を制圧していくというシステムであり、圧倒的な軍国主義社会であったわけです。だから、ファシズムというと独裁政をすぐに思い浮かべるけれども、ニュートラルな意味でのファシズムという言葉を、私はそこで使っているわけです。「軍国主義社会」というぐらいのつもりで使っています。
しかし、ファシズムという言葉のイメージが非常に悪いものだから、この「共和政ファシズム」に対する風当たりは強かったです。以前に大学院生のときに私が指導して、今は各地の大学で教えている人たちと新年会を行いましたが、「あの、共和政ファシズムというのはどうなんですかね」と、みんなから追及されました。「それは、私は問題を投げかけているわけで、これが絶対正しいというわけではない。でも、こういう見方もできるのではないか」と言っています。
●イタリア人に染みついている「ローマ帝国の栄光」
本村 そのように「ファシズム」をニュートラルに捉えれば、歴史の中のいろいろなところに投げかけることができる。戦中には、たぶんドイツやイタリアではそういう言葉が非常にニュートラルに語られていたと思います。
―― そういうことですね。同時代を生きていたイタリア人たちには、ヒトラーとムッソリーニの大きな違いが見えていた。ヒトラーはもともと反ユダヤ主義で、「ユダヤ人絶滅」などということを表看板にして政権を取っていくわけですが、少なくとも同盟を結ぶまで、ムッソリーニはそうした人種政策に対して極めて批判的で、「あんな非科学的な話があるか」という話もしていました。
当時、ファシズムに参加していた人、特にイタリア人は、虐殺については知らなかった。となると、当時のイタリア人からすれば、イタリアの栄光というものは、かつてのローマ帝国の、先生がおっしゃる「共和政ファシズム」的な、一種軍国主義的な強さとイコールで結ばれるという感覚なのでしょうか。
本村 そういう背景がありますからね。イタリア人は、小さい頃からそういう教育を受けていて、「ローマ帝国の栄光」というものが染みついているわけです。やはりそこのところで、外国の人間から見ると、なぜムッソリーニが台頭してくるのかが分かりにくい。特にヒトラーと比べると分かりにくい。だけど、イタリア人からすれば、ごく自然な流れの中で起こってきていたのではないかと思うわけです。
―― やはり「ローマの栄光、再び」みたいな感じでしょうか。
本村 そう。そういうことがあったのではないかと思います。
●「ドゥーチェ」と呼ばれ親しまれた独裁者
―― 実際、ムッソリーニはそういう形で首相になって、当初は連立政権を組んでいきます。アナーキストだというお話もありましたが、本来は無神論者だった彼は、ローマ教皇とも結び、それが「バチカン市国」のできる元になっていきます。また、国王との関係も、結局国王の庇護の下で独裁政権を立てていくというやり方で、ドイツとはやや異なる形、既存の体制の中に組み込まれるように独裁政を位置づけていく方向を取りました。
本村 彼がローマというものを相当意識していたのは、エウル(EUR)という街に行けば分...
(本村凌二著、PHP研究所)