●大粛清は戦争に向けて国内の体制を整える手段だった
―― 続いては、1937年の大粛清が始まった理由です。最近では、諸外国での研究がかなり進んできているのでしょうか。
福井 そうです。1937年と1938年の2年間で約70万人が処刑されました。1年365日で単純に計算すると、毎日1000人処刑されたということです。老人も含めた、当時の成人男子の1パーセントが処刑されました。
それに対して、なぜこのような大規模な自国民に対する大粛清(テロル)が行われたかというと、以前はスターリンの病的な猜疑心だという人も多かったのです。例えば、スターリン研究の第一人者といってもいい、ロシアのオレーク・V・フレヴニューク教授と、アメリカ・インディアナ大学の黒宮広昭教授の二人によると、資本主義国との戦争が不可避の中、戦争に備えて、「戦争が始まった場合、内部から攪乱するような社会の『第五列』の連中は根絶しておかなければいけない」とスターリンが考えたということです。
黒宮教授の表現を借りると、「大粛清は戦争準備のための国内向けの先制攻撃」だったということです。実は、その大粛清の段階ですでに収容所に入っていた人も処刑されています。物理的に抹殺しておかないと、国内が戦場になったら、この人たちが逃げ出すか、あるいは敵に利用されるかもしれないからです。戦争に備えるために、もうこの世から亡き者にしなければいけないということです。
実際に処刑された人たちの容疑を見ると、実はドイツよりも、ポーランドや日本のスパイといった容疑で捕らえられた人のほうが多いのです。当時のロシアは西側ではポーランドと国境を接し、東側では満州国を通じて日本と国境を接していました。そのため、最初に戦争をするとすれば、当時の段階ではポーランドと日本だったからです。
●大粛清が独ソ戦勝利に大きな影響を与えた
―― 大粛清については、むしろ国力を弱めたといった意見や、スターリンがある意味でひどく狂ってしまったがために、第二次世界大戦で独ソ戦が始まった時ドイツに攻め込まれてしまったのではないかなどという見方があったりもします。しかし、そうではないということですね。
福井 もちろん、(そのことについて)大粛清がある程度の影響があったことは確かです。非常に厳しい戦争になったときに、何よりも大切なのは国内が団結していることです。特に攻められたときには大事です。政治の世界では、勝っているときは誰もが味方なのですが、負けたときには、「だから言ったじゃないか」と言う人が大量に出るからです。そのためにも、反スターリンの核になるような人物は全て事前に抹殺しておくのが重要だということです。
実際、ナチスドイツとの比較では、ドイツは敗戦が濃色になると、反ヒトラー勢力が非常に大きな勢力になって、1944年に最上層部を巻き込んだヒトラー暗殺計画が実際に行われました。しかしソ連の場合は、最初あれほど負けていたのにそういう動きは全くありませんでした。そんなことができる人が物理的に存在していなかったということです。
―― 最近の研究では、端からそれを見越して、国内の敵である存在を予め抹殺し、国内の引き締めをしたという、かなり積極的な意味で捉えているということですか。
福井 そうです。黒宮先生は、やはりヒトラーのドイツと比較して、戦争中は赤軍も含めてスターリンとソ連全体が一体となったことは、独ソ戦勝利にとって非常に大きかったと指摘しています。
●『極東にて』で描かれる日本打倒と革命政権の樹立
―― 確かにそのような大粛清を目の当たりにすれば、誰も怖くて反論できなくなって、もう戦うしかないだろうということになるとは思います。それとともに、さらに戦争準備も進めていったということですね。
福井 そうです。実は大粛清と同時に、ソ連の戦争準備は極めて本格化していました。1937年11月の赤軍の増強計画では、1938年1月平時、いわゆる平和時の赤軍定員が160万人だったのですが、動員時には650万人にする計画が立てられていました。対日極東戦線では、141万人の動員が計画されていました。本当に大粛清の最中であった1938年3月は、対ヨーロッパと対極東の二正面作戦の計画が立てられていました。
しかも国内向けのプロパガンダの要素もあり、現実には、1938年5月に日本空襲の予行演習まで行われていました。
―― 予行演習をしたのですか。
福井 はい。当時の日本は国民政府軍機が来たと思いました。
―― 日中戦争で中国と戦争中であったためですね。
福井 そうです。日本は中国が戦争をしていたので、国民政府軍機が来たと思いました。そして、実は九州で反日のパンフレットを投下しています...