●大量粛清はスターリンの性格に起因したのか
―― 対外的には、ロシア革命の場合もフランス革命と一緒のところがありました。フランス革命が起きた時は、周りの国々が王政の危機だというので、干渉戦争を仕掛けてきた。ロシア革命の場合も、周りの国々は当然、資本主義の打倒を恐れていた。また、ロシアも「革命外交」をある程度展開したものですから、干渉戦争ということになってしまった。敵と味方という非常に二分化された選択の中で、「敵に通じているものは倒さなければ、やられてしまう」というような粛清的な部分も強まっていったように思います。
レーニンとしては、その後次第に融和策に向かいます。「コミンテルン」のようなものをつくって一部で外部運動はするけれども、表立っては「ネップ」の新経済政策を打ち出したり、少しまろやかな路線ないし融和的な路線に切り替えていきます。これは、そのへんも含めて一つのテクニックといいますか、政権運営の方法論としてあり得るということですか。
本村 そうですね。一方で周りからの干渉もあるけれども、国内的には経済的に少し豊かになっていく。20世紀の資本主義社会はそういう形で成り立っているから、そこに対抗していく上では、やはりどうしても経済政策を成功させなければいけない。民衆の生活レベルを少しでも上げることを全面に打ち出していくことになったのだと思います。
―― そして、レーニンの後、前回先生にお話しいただいたような過程で、スターリンが政権を取っていくことになります。レーニンの時代からそうだったとも、スターリンがより推し進めたとも言われますが、「5カ年計画」に注力していくわけです。
その中で、彼は粛清により政敵をどんどん倒していくことも行いましたが、よく言われるのが「飢餓輸出」ですね。本来的には国内で循環させるべきものまで輸出に回してしまい、それで外貨を獲得して重工業を発展させていくようなことを行います。
もちろん社会主義的政策もあったのでしょうが、富農たちがかなり大量に殺されていくような話があったり、政敵がどんどん粛清されていったりします。いろいろな説があるようですが、多分この間に数百万から1千万人ぐらいが粛清されたのではないかといった話もあります
こうしたスターリン政権の独裁の特徴や本質というものは、どこにあったとお考えですか。
本村 一つは、今おっしゃったように、農業から工業(重工業)に重点が移っていったことです。農業に立脚した地主や貴族といった人々は、周りの資本主義国の干渉と通じるようなところがあったわけですから。ただ、それだけではなく、もう一つ、私はスターリンという人の個人的な性格がやはりあったのではないかと思うのです。
―― 性格ですか。
本村 ええ。自分の敵を何らかの形で処刑することは、もちろん歴史の中にありました。それでも粛清というのはやはり好まれません。ローマ時代の五賢帝の中のハドリアヌスが最後まで評判がよくなかったのは、自分の政敵だった元老院貴族の数名を処刑していることが、後々まで言われたためです。
しかし、大量に粛清するということ、しかも近代の20世紀になって、そういう国の中でそれを行えるというのは、やはり性格的にかなりヒトラーに通じるようなものもあったのではないか。ある人に言わせると、ヒトラーとスターリンは会っていないけれども、ものすごく気が合ったのではないかといわれているのです。
本村 一方で「ファシズム」があり、一方で「共産主義」があった時代に、もちろん最初のうちは独ソ不可侵条約を結んでいましたけれども、それでもやはり相通ずるものがある。というのは何か「邪魔なものを徹底的に退ける」というところ、単純に何百万から1千万を超えるような人たちを処刑できるという点で、われわれ常人には分からないようなところが、スターリンにはあったような気がします。
●ソ連のスターリン批判に驚いた日本の共産主義者
本村 ただ、最初のうちはユダヤ人虐殺が盛んに叫ばれた時代でもあり、スターリンの粛清についてはあまり表立っては言われませんでした。記憶をたどると、私が小学生や中学生だった頃、日本の共産主義者というのは、いわゆる「ソ連万歳」みたいな感じでした。それぐらいスターリンに対する肯定的な見方をしていたわけですよね。彼が亡くなるのは1953年でしたっけ。
―― スターリンが亡くなるのが1953年ですね。
本村 そして、フルシチョフがその後に着きます。
―― 1953年に第一書記に就任になります。
本村 それから2、3年たつと、スターリン批判を始めた。そのときに日本の共産主義者の人たちは相当ショックだったのではないかと思います。この間まで自分たちは「スターリン万歳」のようなことを言ってきたのに、まさにソ連の内部において...