●「大政奉還」が意味したのは、慶喜中心の公儀政体
前回のシリーズレクチャー(「明治維新とは~新たな史観の試み」)で幕末を詳しくレビューしましたが、未見の方もいると思いますので、明治維新に至るまでの流れをざっと振り返ってみます。
直接的なエポックは、慶応3(1867)年10月14日に徳川慶喜が「大政奉還」を朝廷に申し出たことです。幕末の極まるハイライトがこれで、明治維新になります。ただ、維新になったとはいえ、体制がどう変わるかはよく分かっていなかった。世界中の人が驚いたのは、明治4(1871)年7月14日に「廃藩置県」が行われた時で、「よくこんなことができた」というほどの、明治維新の達成した確たる事実です。
その1867年から1871年のおよそ4年間が、非常に重要な期間として大変な激動を起こします。
まず、大政奉還では徳川慶喜が幕府という制度を放棄して朝廷に国政の責任を委ねたのですが、そうなると朝廷には政治能力がないので、実権は全て慶喜に集まります。したがって、有力諸藩の合議による体制(公儀政体)を行うしかありません。全国3000万石のうち800万石は慶喜の配下にあり、優秀で外交経験も豊富な官僚が多数、彼を支えていました。圧倒的な力を集めていたため、「大政奉還します。公儀政体をつくります」となると、自然に慶喜による近代化推進になってしまいます。
●薩長の対抗策「王政復古の大号令」と最初の小御所会議
これを絶対許せないのが薩長の立場です。かなり強引ながら、大久保利通が王政復古派の貴族(公家)を集めて、12月9日「王政復古の大号令」を発出します。新政府最初の会議として小御所会議を開いて、徳川慶喜のいないところで「辞官納地」を定めます。慶喜に全官職を辞任させ、持っている土地の全てを提供させるという決定です。
席上、四国の山内容堂が「待ちなさい。なぜそんな勝手なことを言っているのか。大体、本人がいない所で勝手に決めるのはよくないのではないか」と言い出したため、一旦休会になります。議論の経緯を見ていた若手が、小御所の建物外で防備隊長を務めている西郷隆盛にこれを伝えると、西郷は「そんな話は、匕首(あいくち)一本で足りるだろう」と言ったとされます。これは完全な恫喝ともいえるもので、山内側にもすぐ伝わります。結局、再開後の会議では山内や松平春嶽らの徳川擁護派もおとなしくなり、大久保の提案が通ります。
慶喜はさすがに見事な去就を見せ、無用の衝突を避けて大坂へ下がる。圧倒的な軍備を背後に控えたまま、静かに相手の出方を待つわけです。
「納地」といっても、一体いくらの納地になるのか見当もつかず、やはり「公儀政体」を行うしかない。そうすると公家も侍も大名もたくさん入る中、最終的には圧倒的に大きな力を持つ慶喜が再支配することになるだろうという予測は、大久保や西郷にもついていました。
●「錦の御旗」が趨勢を決した「鳥羽・伏見の戦い」
次に起こったのは江戸市中の火つけ強盗です。薩摩藩江戸屋敷から夜な夜なにじり出た浪人たちが、大店に侵入しては、家に火を放つ。追われると、これ見よがしに薩摩屋敷に帰っていく。蛮行が繰り返された挙句、業を煮やした幕府は東北の諸藩に対して薩摩屋敷焼き討ちの命を出します。
この知らせが大坂の西郷の元に届くと、「狙い通りだ。こうなれば売られた喧嘩。受けざるを得ない」というので、鳥羽・伏見の戦いになります。
鳥羽・伏見の戦いは、実質上1月3日から4日にかけての1日しかありません。薩摩藩がたいへんな奇策を持ち込んだからです。これは真偽が定かでないという声もありますが、「錦の御旗」は薩長軍が入手して見せつけたものだということです。朝敵となりたくない徳川方の武将はひるみ、事実上薩長の勝利が確定します。これで明治維新となり、以後は明治政府の形を懸命につくっていくわけです。
しかし、これで終わりではなく、春になると「東北戦争」が起こります(シリーズ内で詳述します)。それから、榎本武揚という人もいます。海軍司令だった彼が軍艦を率いて、徳川の処分が決まるまでは動かないと言います。江戸城は開城していたため、船を全部出すという騒ぎになり、結局、彼は北海道へ行って、その後数カ月間、抵抗を続けます。
そうして、ようやく明治維新による政府ができ、「五箇条の御誓文」も出しますが、それから半年以上は騒乱状態です。このため、東北が惨憺たるありさまになることは、後ほど詳述します。
●封建制度の終焉を告げた「廃藩置県」は民主化革命だったか?
慶応4(1868)年には「五箇条の御誓文」発布の後、天皇の即位が行われ、ほどなく「版籍奉還」が行われます。ただ、この時点では「版(土地)と籍(人民)がない」ということに何百もの諸藩が応じはしたものの、実態は幕...