●会津藩主松平容保は死罪に値するかが問われた東北戦争
さて、明治は始まりましたが、そう簡単には始まらず、「東北戦争」という大きな内戦がありました。その話をします。
東北は、奥羽が米どころであるため、力のある諸藩が多い。仙台藩も力のある雄藩ですし、何より会津藩が名門として力を持っていました。しかし、まさか誰も奥羽が戦場になるとは思ってもみなかったのです。朝廷の権威で会津藩が恭順するのではないかという観測がありました。
力のある仙台藩は、自己主張もします。「なぜ会津藩が特別な処罰を受けなければいけないのだ。会津藩は、たまたま徳川将軍の懇請を受けて京都守護職を務めただけではないか。何の問題があるのだ」と、藩主・伊達慶邦が官軍に申し立てたわけです。
奥羽鎮撫総督の下では、慶応4(1868)年2月に薩摩藩の強硬派である大山綱良が鎮撫使の任につき、3月初めには長州出身の世良修蔵が参謀として実権を握ります。これがかなり残酷な人物で、会津藩に対しては強硬派として厳罰処分を要求します。
要求は、具体的には会津藩主・松平容保の死罪ですが、恭順する徳川慶喜が穏やかな処遇を受けているのに、京都守護職の任務を担っただけの名将・容保がなぜ死罪なのか。東北人にとっては疑問でした。
この頃、西郷隆盛はどうしていたかというと、東征軍司令官として北上している最中で、まだ関わっていません。この頃から少しずれていたのか、事態の中心にはいませんでした。
●仙台・米沢両藩の会津救済嘆願、功を奏さず
鎮撫使一行は、3月23日に仙台に入ります。鎮撫使の世良は仙台藩に対し「早く出兵して、会津を懲らしめろ」と要請します。止むを得ず1000人ほどを会津藩境に送りますが、戦争する気はありません。鎮撫使が強請してくるため、仙台藩、米沢藩、会津藩が頻繁に接触して、なんとか戦争をしないで済む方法はないかと議論したのです。
この時、仙台藩主の伊達慶邦が世良に面会しています。「会津藩が謝罪したいと言っているから、その周旋をしたい。謝罪の条件は、どうなるか」と質問したのに対して、世良は聞くまでもなく激怒して「容保の斬首と開城」の線を譲りません。
仙台・米沢両藩は、あまりに過酷だと見て修正案をつくります。「開城、減封、重臣の首級三つでは、どうか」。これには会津藩が、「いや、のめない」と拒否します。
これは、どういうことだったのでしょうか。会津藩は、徳川幕府に最も忠誠を誓っていた立派な藩ですが、慶喜に従って大坂から江戸へ同じ船で帰ってきていました。慶喜に倣い、一応は恭順の姿勢を取る。しかし、ほどなく、やはりこれは戦える体制をつくらなければならないと決意します。なぜなら、会津藩は京都守護職をやりながら薩長のすさまじい権謀と暴慢を知り抜いていたからです。
彼らに無防備のまま直面するのは危険である。したがって、会津に帰るとすぐに抗戦体制を整備し、年齢別に部隊編成を行います。最も壮年を集めた18歳から35歳の朱雀隊(1200名)と36歳から49歳の青龍隊(1200名)。それより年長者が、50歳以上の玄武隊(400名)。そして、有名な16歳から17歳の白虎隊(300名)。その他、砲兵隊、遊撃隊、総勢7000余。これだけの準備をしていたため、簡単に謝罪のできる状況ではなかったのです。
●白石会議の発足と世良修蔵の暗殺
山形に庄内藩があります。維新前夜の薩摩藩江戸屋敷焼き討ちの先頭に立った藩です。会津藩の新選組に対し、庄内藩は新徴組を抱えていて、腕っ節の強い彼らが機動力となりました。政府軍はそれをもって庄内藩を不届きと断じ、打ちつぶすべきだと唱えました。
この命により、先導役を務めたのが山形の天童藩です。これも卑劣な仕打ちなのですが、総督府から天童藩に庄内藩打ち払い令が出たのです。天童藩は道先案内をしたために庄内を討つことになってしまいましたが、庄内藩が怒って逆に天童藩を焼き討ちにしました。さらに秋田藩も必死で戦争を引き延ばす工作をします。
東北としては、どこも戦争を避けたい、最少の犠牲で平和が来ればいいと考え、白石列藩会議を開きます。会津藩からの嘆願であるとして、米沢・仙台藩の家老の名で東北諸藩に回状を送ります。各藩が集まったところで、米沢・仙台藩が嘆願書を準備しました。
仙台藩主の伊達慶邦は、岩沼まで出陣していた九条道孝総督に、この書状を手渡します。九条は貴族ですが、これを見て「かつて三条実美が8月18日の政変で京都を追われたが王政復古で復権したごとく、自分は東北諸藩と新たな王政復古で復権を望む」と言いました。この言葉を聞いて、東北勢は大喜びします。現場の世良は強硬派だけれども、上層部は理解がある。鎮撫使も分裂しているのではないかと感じたわけです。
世良はあくまでも会津藩を壊...