●「大隈使節団」構想を横取りした?岩倉一行
岩倉使節団は、明治4(1871)年11月12日、横浜港から太平洋会社アメリカ号で出帆します。使節50名、随員60名の合計110名の一行の中に、7歳の津田梅子も入っていました。
これは、もともと大隈重信が発案した派遣計画でした。「やがて条約の改正の交渉が必要になってくる。そのために私が状況を見に行こう」と言っていたのが、背後で岩倉具視に画策されたのです。大隈はフルベッキというオランダの専門家に知恵を借りましたが、彼のプランを手に入れた岩倉が大隈つぶしを企み、先回りをしたわけです。
ただ、大隈の使節団は20人程度の予定でした。なぜ110人も連れて行ったのか。大久保利通と木戸孝允が長期間政府を留守にするのを極めて不安がるため、大隈は留守政府を西郷隆盛に任せようと考えていました。しかし、自分の言い出した大隈使節団が立ち消えになるのであれば、むしろできるだけ多くの人間を外へ出してしまった方がいい。つまり、鬼のいない間にどんどん改革してしまおうというのが、大隈のなかなかしぶといところでした。
留守にするに当たって岩倉使節団は留守政府との間に約定を締結し、調印します。内地の事務は、大使の岩倉たちが帰国の上で大いに改正するつもりであるから、特別、新しい改正はしないという約束です。しかし、実際には全然そうはなりません。彼らがいなくなった途端に学制改革、地租改正、徴兵令の施行、身分制改革などが、矢継ぎ早に実施されます。
その背景には、当初の予定では10カ月半だった使節団の派遣期間が1年10カ月にも延びたことがあります。しかも、木戸も岩倉もタガが外れたのか、もっと遅れて帰ってくることになります。一方、留守政府では、井上馨と司法卿になった江藤新平、文部卿・大木喬任の政治対立が、大蔵省と司法・文部省の対立として表面化していきます。
●サンフランシスコの「日の丸演説」と条約改正
使節団の目的は、条約改正のためではなく、やがて条約改正のときが来るので、欧米の実情を見聞しておこうということでした。明治4(1872)年12月、一行は初めてアメリカ大陸を遠望し、やがてサンフランシスコのゴールデンゲートを過ぎます。非常に感動的だったようです。
伊藤博文という人物は妙な人で、幕末に長州藩からイギリスに秘密留学した期間は短かったものの、「周旋屋」のあだ名の通り調子よく、何にでも対応します。サンフランシスコでは「日の丸演説」という大演説を打って、非常に評判が高かったといいます。評判のいい記録だけを集めた可能性もありますが、歓迎攻めにはあっていたようです。
大変な不平等条約を押し付けられていた日本は、ここぞとばかりワシントンの国務省で条約改正に関する交渉を始めることになります。本来は改正交渉が目的ではなく、あくまで各国の反応を打診するための使節団だったのですが、サンフランシスコ到着時の歓迎ぶりを見ると、このままアメリカで改正調印に持ち込めるのではないかと見た人がいたのです。
そういう雰囲気をつくったのは、駐米少弁務使、後の文部卿・森有礼です。同調したのは副使の伊藤です。
国務長官フィッシュは使節団に対し、天皇の委任状を持ってきているかと糺します。使節団は持参していません。この時、イギリスに留学していた尾崎三良と川北俊弼という優秀な若者たちがワシントンに急行して、中止を直訴しています。今、交渉してしまうと、最恵国条款によってたちまち他の国にも波及してしまう恐れがあると見たためでした。
大久保と伊藤が天皇の委任状を取るために急遽、帰国しますが、留守政府からは勝手なことをするなと猛反対を受けます。とうとう大久保と伊藤が怒って切腹騒ぎに発展したため、仕方なく委任状を下布し、託すことになります。しかし、もう5月になってしまっていたため、アメリカに戻ると交渉はすでに4回まで進んでいて、アメリカの壁は厚く、状況は動きませんでした。
ここまで来て、木戸は改正交渉に踏み切ったことを失敗だったと認め、「言い出したのは森有礼だった」と指弾します。森は、岩倉が軟弱だからと批判。また、森の尻馬に乗った伊藤に対しては、「軽薄であり、大臣の器ではない」との批判も出たそうです。あまりにもお粗末な展開といえるでしょう。
●イギリス上陸。ビクトリア女王謁見とパークスの案内
使節団は明治5(1872)年7月14日にイギリスに渡り、ロンドンに到着します。ここで、例年の行事としてスコットランドで避暑をしているビクトリア女王の帰参を待つことにしました。日程が大きく遅れたのは、これも原因しています。なんといっても3カ月以上も待っていたのです。私はロンドンを訪れたことがあるのですが、その時、使節団が泊まっていたという立派な宿を紹介してもらいました。今も...