●漸進論に基づき、殖産興業に力を入れた大久保利通
シリーズレクチャーも最後の方に近づいてきました。近代国家をめざした大久保政権ですが、明治六年政変以降の大久保利通は、卓抜たる指導力を発揮していきます。
明治6(1873)年11月、大久保は「政体に関する意見書」を起草します。日本は半ば開化しただけで、当面は君主政治を維持しつつ、次第に君民政治に移行させるべきだという漸進論です。
大久保はまた、「殖産興業」に最も力を入れています。イギリスを見た大久保は、岩倉使節団の中でも工業振興の必要性を最も痛切に感じた人物だったようです。帰国後、先述した「意見書」に続き、明治7(1874)年には「殖産興業に関する建議」「地租軽減の建議」「行政改革の建議」を矢継ぎ早に出していきます。当時の内閣は、一応は組織の体裁を取りながらも、指導者が自ら率先垂範していました。実に見事なものです。
また天皇についても、あるべき天皇像としてヨーロッパの皇帝をイメージしていました。明治新国家の建設、国民統合のシンボルとして、天皇の役割が強く意識されていました。
このように、大久保は八面六臂の活躍をしました。地租民費削減令、第十五国立銀行開業、三田育種場設立、戦費補填のための予備紙幣発行、第2回地方官会議などなど、これは明治9(1876)年の事例を並べましたが、ほとんど毎月のように大きな仕事をしています。
●維新十年を振り返った夜の紀尾井坂襲撃
明治11(1878)年4月10日、指導者として多忙を極めていた大久保は、第二回地方官会議を開きます。5月14日、挨拶に来た福島県令・山吉盛典に対して大久保は次のように言っています。
「維新以来十年、外政、内乱、一揆など、自分は内務卿なのに東奔西走。海外にも行き、何もできなかった。今、ようやく落ち着いたので、これからと思うが、三十年はかかるだろう。今までの十年は創業期だ。これからの十年は第二期だが、最も重要である。内治を整え民産を殖するはこの時だ。私は全力を尽くすつもりだ。その後十年は第三期で、これは後進に委ねよう。第二期は土木も移民開拓も絶対に成功させねばならない」
そして、大久保は馬車で家を出ます、紀尾井坂を通りかかった時に6人の刺客が襲ってきました。襲ってきたのは、石川県士族・島田一良ら。彼らの凶弾に斃れた大久保は無残な姿で、頭はザクロのようになって...