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大久保利通の暗殺と明治十四年の政変

明治維新から学ぶもの(20)近代国家をめざして

島田晴雄
公立大学法人首都大学東京理事長
情報・テキスト
大隈重信
西南戦争・台湾出兵以降、殖産興業を中心とする国づくりが進められる中、大久保利通が不平士族により暗殺される。すると、内務卿を伊藤博文が後継して、伊藤・大隈重信・井上馨による三頭体制となり、福沢諭吉もしばしば国政参加を求められる。よくも悪くも近代日本は滑り出していた。(2018年11月13日開催島田塾講演「明治維新とは:新たな史観のこころみ」<後編>より、全22話中第20話)
時間:10:24
収録日:2018/11/13
追加日:2019/05/04
タグ:
≪全文≫

●漸進論に基づき、殖産興業に力を入れた大久保利通


 シリーズレクチャーも最後の方に近づいてきました。近代国家をめざした大久保政権ですが、明治六年政変以降の大久保利通は、卓抜たる指導力を発揮していきます。

 明治6(1873)年11月、大久保は「政体に関する意見書」を起草します。日本は半ば開化しただけで、当面は君主政治を維持しつつ、次第に君民政治に移行させるべきだという漸進論です。

 大久保はまた、「殖産興業」に最も力を入れています。イギリスを見た大久保は、岩倉使節団の中でも工業振興の必要性を最も痛切に感じた人物だったようです。帰国後、先述した「意見書」に続き、明治7(1874)年には「殖産興業に関する建議」「地租軽減の建議」「行政改革の建議」を矢継ぎ早に出していきます。当時の内閣は、一応は組織の体裁を取りながらも、指導者が自ら率先垂範していました。実に見事なものです。

 また天皇についても、あるべき天皇像としてヨーロッパの皇帝をイメージしていました。明治新国家の建設、国民統合のシンボルとして、天皇の役割が強く意識されていました。

 このように、大久保は八面六臂の活躍をしました。地租民費削減令、第十五国立銀行開業、三田育種場設立、戦費補填のための予備紙幣発行、第2回地方官会議などなど、これは明治9(1876)年の事例を並べましたが、ほとんど毎月のように大きな仕事をしています。


●維新十年を振り返った夜の紀尾井坂襲撃


 明治11(1878)年4月10日、指導者として多忙を極めていた大久保は、第二回地方官会議を開きます。5月14日、挨拶に来た福島県令・山吉盛典に対して大久保は次のように言っています。

「維新以来十年、外政、内乱、一揆など、自分は内務卿なのに東奔西走。海外にも行き、何もできなかった。今、ようやく落ち着いたので、これからと思うが、三十年はかかるだろう。今までの十年は創業期だ。これからの十年は第二期だが、最も重要である。内治を整え民産を殖するはこの時だ。私は全力を尽くすつもりだ。その後十年は第三期で、これは後進に委ねよう。第二期は土木も移民開拓も絶対に成功させねばならない」

 そして、大久保は馬車で家を出ます、紀尾井坂を通りかかった時に6人の刺客が襲ってきました。襲ってきたのは、石川県士族・島田一良ら。彼らの凶弾に斃れた大久保は無残な姿で、頭はザクロのようになっていたといわれています。

 首謀者の島田一良は、間もなく自首して斬奸状を提出しました。書かれているのは、維新政府への不満でした。

「およそ政令法度、天皇陛下の聖旨に出るに非らず。下衆、庶民、人民の公議に由るを非ず。独り要路官吏数人の憶断専決する所に在り」

 寡頭政治であるといった感じを持たれた側面はあったと思います。


●伊藤体制の下、インフレ収束に挑む


 大久保が亡くなっても、政府は騒がず、内務卿の後任を早速、伊藤博文が受け継ぎます。大蔵卿に大隈重信、工部卿にドイツから呼び戻した井上馨を置きました。

 インフレ進行について、政府は洋銀相場の高騰による輸入超過が原因だと見、国内で産業を興して輸出入の不均衡を解消すれば良いと考えました。しかし、これは逆で、財政支出がひどく、通貨価値がより下がって、インフレを進行させます。

 また、インフレを収束させるため、すでに出している通貨を償却した方がいいだろうと考えた大隈重信が、紙幣償却の財源として1,000万ポンドの外債発行を行おうとします。これに猛反対したのが松方正義でしたが、この時点では容れられず、大蔵省を去っていきます。ただ、これが一つの契機となり、明治十四年の政変につながっていきます。


●官報発行を求めて、福沢諭吉への接触


 明治13(1880)年末、井上から福沢諭吉に、官報刊行事業の担当を求めて接触があります。福沢は新聞発行を一大事業と考えていたので、政府にどれほどの覚悟があるか知りたいと申し入れます。井上が「打ち明ければ政府は国会を開設する決意である。世論の善導が必要で、お願いしたい」と言うので、福沢は「それなら」と協力を約束します。

 明治14(1881)年1月、福沢、井上、伊藤、大隈の打ち解けた交歓の場が持てるようになります。政府としては、国会開設運動が相当盛り上がっているのに対し、政府案の提出も必要だと考え、各参議に憲法案提出を要請していました。大隈案の提出が非常に遅れていたのですが、ようやく提出されたのを見ると「明治15(1882)年末選挙、16(1883)年国会開設」という急進案でした。

 当時、大隈は政府第一の実力者でしたが、政府全体は薩長優位で、自身(肥前出身)の地位は不安定です。福沢と組んだ憲法案を受け入れる中で、自分の地位を固めようと考えたのではないかという憶測があります。それにより、三条の同意などの既成事...
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