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西郷隆盛を盟主とした士族の反乱「西南戦争」

明治維新から学ぶもの~改革への道(17)西南戦争と西郷の最期

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授/テンミニッツTV副座長
概要・テキスト
西南戦争
(鹿児島暴徒出陣図 月岡芳年画)
明治維新後、日本にとっては最大級の内戦となった「西南戦争」。西郷隆盛を盟主とした士族の反乱は、どのように起こっていくのか。実は当の本人である西郷と政府の大久保利通の二人だけが、最後までこの成り行きを信じられなかったともいう。(2018年11月13日開催島田塾講演「明治維新とは:新たな史観のこころみ」<後編>より、全22話中第17話)
時間:08:18
収録日:2018/11/13
追加日:2019/05/04
≪全文≫

●鹿児島に帰り、「私学校」をつくる西郷隆盛


 いよいよ西南戦争が起こります。よく知られている史実ですが、この機会に事実関係をフォローしておきましょう。

 明治6(1873)年の政変で西郷隆盛が下野すると、鹿児島士族の大半が郷里に帰ってしまいます。天皇陛下はこれをとどめようとしますが、聞く者はなく、西郷に従って帰ってしまう者ばかりだったので、大変不穏な状況になります。

 西郷は、鹿児島に「私学校」をつくります。戊辰戦争による賜金があったので、それを用いて学校をつくり、不平士族の受け皿にしようとしたのです。内容的には精神修養の団体ですが、その一環として武芸に励むこともありました。

 世間は西郷の一挙一動に注目していましたが、西郷はそれらに背を向け、帰郷してからの3年あまりは畑仕事や山野での狩猟に励んでいました。いろいろな人が会いに来ましたが、そのほとんどが密偵で、彼は常に観察されていました。


●江華島事件を経て内乱の時代へ


 この間に、日朝の国交問題が解決したことになっています。明治8(1875)年5月、日本海軍の「雲揚」という軍艦が調停のために派遣され、江華島の水道河口からは陸に向かったところ、江華島の砲台から砲撃を受けたのです。翌日には報復攻撃を行い、砲台を焼き払って一時的に占領しています。これを機に朝鮮問題解決が志向されます。全権大使として派遣されたのは黒田清隆。明治9(1876)年2月には日朝修好条規(江華条約)が結ばれます。

 この経緯に対し、西郷は「とんでもないことをしてくれた」と反発しますが、後の祭りでした。国交樹立により征韓論の議論が消えたところで、士族の不満が内側に向けて爆発します。まさに一触即発の状態となり、この後に大変な反乱が続くわけです。

 まず、熊本の敬神党(神風連)が廃刀令に反発し、福岡の秋月士族が続きます。次には山口で元参議の前原一誠が蜂起して斬首されます。

 瞬く間に鹿児島の情勢も非常に不穏になってくるのです。私学校では西郷を狩猟や温泉から引き離そうと相談しますが、肝心の西郷は「焦るな」と抑制するばかりです。


●警察が仕掛けた罠か、私学校士族の暴走か


 中央から見ると、私学校の者たちは何をやっているか分からない危険集団そのものではないかということで、明治9年暮れには警視庁幹部の川路利良が元締めとなり、何十人もの警察官が調査...
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