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改革を連打した留守政府で表面化した不正

明治維新から学ぶもの(14)留守政府の腐敗

島田晴雄
公立大学法人首都大学東京理事長/10MTVオピニオン副座長
情報・テキスト
江藤新平
岩倉使節団出発後、留守政府は学制・徴兵令・地租改正・太陽暦採用等の改革を連打していく。一方、鉱山利権にからむ「尾去沢銅山事件」、「山口県地租米不正事件」等、留守政府の不正も続出。これはいったいどういうことなのか。(2018年11月13日開催島田塾講演「明治維新とは:新たな史観のこころみ」<後編>より、全22話中第14話)
時間:07:00
収録日:2018/11/13
追加日:2019/04/27
キーワード:
≪全文≫

●郵便、学校制、徴兵制、太陽暦導入の影で


 岩倉使節団はいろいろな学びを得て帰ってきますが、留守政府は出発前の約定など守らず、どんどん新しい政策を進めていました。

 使節団がパリに入った明治5(1872)年11月、「徴兵告諭」と「全国募兵の詔」が出されます。学校制度の制定も同年に始まりました。大中小の学区に、大学、中学、小学を置き、「国民皆学制」を構想したものです。4年後の明治9(1876)年には2万6584校と、目標の半分を達成して、欧米とほとんど同じレベルに達しています。維新前から寺子屋の数が3~4万を数えていたため、それを使った側面もありました。

 そして郵便制度(明治4年)、太陽暦の導入(明治5年)なども、矢継ぎ早に行われています。

 この頃、留守政府内ではとんでもないことが行われています。大蔵省の井上馨、司法省の江藤新平、文部省の大木喬任らの対決です。どちらかいうと、土佐と肥前が主導権を握り、とうとう井上が締め出されて辞職することになります。実は井上は、権力を悪用してとんでもないことをしていました。かなり有名な話ですが、数々の疑獄です。


●究明されずに終わった近代初の陸軍省疑獄


 まず、陸軍省の疑獄として明治5年の「山城屋和助事件」があります。山城屋和助の元の名は野村三千三で、長州奇兵隊の幹部として山県有朋にかわいがられていました。

 兵部省のトップとなった山県が長州藩のよしみで便宜を図るため、御用商人の山城屋はたちまち蓄財して豪商となり、山県たちの軍資金や遊興費の全てを賄っていました。が、生糸相場に手を出して大失敗したため、埋め合わせの資金を陸軍省の公金から引き出し勝手に使ってしまいます。その額は15万ドル(65万円とも80万円とも)で当時の国家歳入の1パーセントに相当しました。

 事態を善処するどころかパリで豪遊していた山城屋の情報が政府筋の耳に入り、陸軍省で糾弾せよということになります。首魁は陸軍大輔の山県有朋だと分かりますが、追及した近衛兵たちにとっては自分の組織のトップでもあります。西郷隆盛は山県を近衛兵統率の部署から降ろし、陸軍大輔に専念させることにします。これで一件落着のはずでしたが、パリから呼び戻された山城屋には返済能力がまったくありません。帳簿などの証拠書類を全て焼却した上で、彼は陸軍省の一室で割腹自殺を遂げます。真相は闇として葬られることになりました。


●井上馨の悪名を高めた「尾去沢銅山事件」


 もう一つ、尾去沢銅山事件があります。これは長州閥井上の罪に関するものです。

 南部藩は御用商人の村井家から5万円以上という多額の借金をしていたのですが、当時の慣習により証文には「奉内借」(内借し奉る)と書かれていました。これは藩への貸付金の一部でも返却されたときに提出することを想定した文言であり、儀礼です。現在でも日本政府は、お金を出させるときに「お金を出していい」という命令の仕方をするように、文法が逆になるわけです。

 ところが井上は、そのあたりの儀礼的慣習はよく承知しているにもかかわらず、村井家に対し、「南部藩から借金をして返していないだろう」という濡れ衣を着せます。貸付金を逆に借金だとされた村井の釈明を一切聞きません。結局、村井家は尾去沢鉱山を没収されることになります。没収後の鉱山は井上家出入りの政商・岡田平蔵に払い下げをさせます。岡田は鉱山を約3万円、しかも15年間無利息という好条件で入手しています。

 あまりにも井上の行動がひどいため、西郷からは「三井の番頭さん」との揶揄も受けています。井上の上司である木戸孝充は、外遊から帰ってきた途端、大変な疑獄騒ぎが持ち上がっているため、もみ消しに奔走したといいます。


●維新政府=犯罪者説の裏付けをなす数々の汚職や疑惑


 また、「小野組転籍事件」があります。江戸末期の財閥は三井、島田、小野といわれていました。小野屋は本社が京都であったため、首都が東京に移ると「東京で商売をしたい。転籍させてくれ」と願い出ました。ところが、これまで明治の元勲の資金源になってきたところであり多額納税者であるため、府は首を縦に振りません。懸命に請願をするけれども、逆に弾圧されることになってきます。

 たまりかねた小野組は「司法省達46号」に頼り、京都府相手に訴訟を提起します。切れ者として知られる司法卿・江藤新平は当時、稀有な法治主義の権化であり、「守れ」と厳命。結局、小野組の主張が認められ、転籍届が受理されますが、今度は京都府が言うことを聞きません。

 当時、京都府の知事は華族でしたが、参事を務めていたのは井上馨の後輩でした。これが判決を拒否するもので、司法省も黙っていられない。とうとう中央の政争に発展するわけですが、後々、江藤新平が惨殺される一つの遠因になっている可能...
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