●郵便、学校制、徴兵制、太陽暦導入の影で
岩倉使節団はいろいろな学びを得て帰ってきますが、留守政府は出発前の約定など守らず、どんどん新しい政策を進めていました。
使節団がパリに入った明治5(1872)年11月、「徴兵告諭」と「全国募兵の詔」が出されます。学校制度の制定も同年に始まりました。大中小の学区に、大学、中学、小学を置き、「国民皆学制」を構想したものです。4年後の明治9(1876)年には2万6584校と、目標の半分を達成して、欧米とほとんど同じレベルに達しています。維新前から寺子屋の数が3~4万を数えていたため、それを使った側面もありました。
そして郵便制度(明治4年)、太陽暦の導入(明治5年)なども、矢継ぎ早に行われています。
この頃、留守政府内ではとんでもないことが行われています。大蔵省の井上馨、司法省の江藤新平、文部省の大木喬任らの対決です。どちらかいうと、土佐と肥前が主導権を握り、とうとう井上が締め出されて辞職することになります。実は井上は、権力を悪用してとんでもないことをしていました。かなり有名な話ですが、数々の疑獄です。
●究明されずに終わった近代初の陸軍省疑獄
まず、陸軍省の疑獄として明治5年の「山城屋和助事件」があります。山城屋和助の元の名は野村三千三で、長州奇兵隊の幹部として山県有朋にかわいがられていました。
兵部省のトップとなった山県が長州藩のよしみで便宜を図るため、御用商人の山城屋はたちまち蓄財して豪商となり、山県たちの軍資金や遊興費の全てを賄っていました。が、生糸相場に手を出して大失敗したため、埋め合わせの資金を陸軍省の公金から引き出し勝手に使ってしまいます。その額は15万ドル(65万円とも80万円とも)で当時の国家歳入の1パーセントに相当しました。
事態を善処するどころかパリで豪遊していた山城屋の情報が政府筋の耳に入り、陸軍省で糾弾せよということになります。首魁は陸軍大輔の山県有朋だと分かりますが、追及した近衛兵たちにとっては自分の組織のトップでもあります。西郷隆盛は山県を近衛兵統率の部署から降ろし、陸軍大輔に専念させることにします。これで一件落着のはずでしたが、パリから呼び戻された山城屋には返済能力がまったくありません。帳簿などの証拠書類を全て焼却した上で、彼は陸軍省の一室で割腹自殺を遂げます。真相は闇として葬られること...