●「版籍奉還」の足がかりは姫路藩から
ここからは、中央政府構築の話になります。
まず、新政府は慶応4(1868)年に「政体書」を頒布して、新たな太政官制を定めました。これによると、地方は「府、藩、県」の三つの制度です。維新後の混乱の中、諸大名の持つ封建的領有権を改革すべきだという議論が、大分盛り上がってきました。
そのような中、朝敵として苦境に立っていた姫路藩から、領地を新政府に返上し版籍奉還する旨の申し出がありました。当時兵庫県知事だった伊藤博文は、姫路藩の建議について「純真な申し立てであるから、速やかに許可するように」と政府に口添えします。
伊藤博文という男は、師であった松下村塾の吉田松陰が「周旋屋」と呼んだように、機を見るに敏で、人々の関心をそらさず、フットワークのいい人物です。彼は、これをきっかけとして全国で版籍奉還を実施すべきだという建白書を書きます。
明治2(1869)年正月、伊藤は陸奥宗光を連れて「国是綱目」6カ条を天皇に届けます。これは全国から非常に注目されました。もろもろの経緯があった後、薩長土肥4藩が提携して、毛利(長州)、島津(薩摩)、鍋島(肥前)、山内(土佐)の4藩主が版籍奉還を天皇に申し出る形になります。薩長土肥の上表が出されると、多くの藩も追従して陸続と奉還が願い出されました。
ところが、そうした政府の動きに対して守旧勢力からは大変な批判が上がり、政府首脳の暗殺まで行われます。大変な知恵者であった参与の横井小楠が京都で殺害されたのです。この年には大村益次郎も殺害されていますから、日本は全然安定していなかったのです。
しかし、明治2年5月以降は版籍奉還の実施に向けた岩倉・大久保ら首脳の審議が現実化していき、6月2日には戊辰戦争の軍功賞典が発表されました。というのは、賞状を出しておけば政府の方針に従ってくれるだろうという読みがあったからです。
明治3(1870)年6月17日、ついに版籍奉還の奉請が勅許されます。天皇陛下が「結構だろう」と認めるのです。版籍奉還は、政府が全国全ての土地・人民の所有者であることを制度的に確認させました。しかし、現実に政府が財政基盤とする直轄地は、旧幕僚や朝敵諸藩から没収地を集めても860万石で、全国3000万石のおよそ4分の1にすぎません。これを基盤として全国政権として機能できるかというと、できるわけがありません。
●インフレと大凶作による板挾みを受けて
話は前後しますが、政府は戊辰戦争に非常にお金がかかったので、不換紙幣である太政官札を大量に発行します。明治元年に2,400万両といいます。これが、この後の大変なインフレの元になります。
会計担当を務めていた由利公正は、経済活動の強化のためにこの金札を使う目的でしたが、実際には赤字財政の一時しのぎに使われたために、極端なインフレを引き起こしたのです。由利は失脚し、明治2年3月には、大隈重信が会計官副知事に就任します。
大隈は非常に進歩派で、動きの速い人でした。また、開明派の官僚も金融・通商政策を進めて何とかしようと思いました。しかし、財政の立て直しは手が付けられない状態でした。もともと大変な超大赤字で、しかも不換紙幣でできていますから、結局は府県から租税を徴収するしかありません。
強烈に租税を徴収するためには、権力を集中したい。それまで、民政については、民部省が扱うことになっていましたが、大隈たちはそれを大蔵省が吸収すべきだと主張します。それはやりすぎなので、大蔵省と民部省の幹部が相互に兼任するという形を取りながらも、実権は大蔵省が握ることになりました。「兼任」という形は、急進的な集権統一政策を強行するための出発点になります。
ところが、明治2年から3年にかけて東北地方は大凶作に見舞われています。偽金が流行し、年貢の取り立ても困難になり、農民闘争が激化します。「一体、政府は何をやっているのか」という声が、地方から上がってくることになるのです。
●急進派の大隈・木戸と穏健派の大久保・広沢らが対立
政府の中枢として大きな批判を浴びたのは、大久保利通でした。明治3年正月、鹿児島出張の途中に凶作の実態を大阪の現場で見た大久保は、人心が完全に政府から離れ、大阪府は中央政府の指示など問題にしていないことを知ります。
参議には民政官の中心であった広沢真臣のような維新に勲功のあった人物もいましたが、大隈たちの急進的な動きには批判的でした。広沢はかなり穏健派ですが、地方からの批判が強まるにつれ、大隈や急進開明派を支える木戸孝允に対して批判的になっていきます。
ところが、木戸は大隈の辣腕を買っていたので、むしろ大隈を参議に昇格させて太政官の一員にすることで、この確執を克服しようと考えます。しかし、この木戸の提案...