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伊藤博文が気づいた、明治政府の「国家デザインの欠陥」

近現代史に学ぶ、日本の成功・失敗の本質(2)明治憲法体制の弱点

片山杜秀
慶應義塾大学法学部教授/音楽評論家
情報・テキスト
伊藤博文
出典:Wikimedia Commons
第2次近衛内閣時代に無任所大臣を活用するという体制を試みたが、そもそも、この発想に至ったのは、当時の大日本帝国憲法(明治憲法)体制では行政がうまくいかないことが明らかになってきたからだった。そのことに憲法をつくった当の本人、伊藤博文も気づいていた。その要因は大日本帝国憲法第55条にある。今回は明治憲法体制の本質とその欠陥について解説する。(全9話中第2話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:09:35
収録日:2021/05/31
追加日:2021/08/11
タグ:
≪全文≫

●障害になった大日本帝国憲法第55条


片山 (無任所大臣の設置について)もう1つ言っておきます。実は明治憲法体制の内閣制度は、縦割りになる上に、総理大臣のリーダーシップが弱いということを、作った本人が問題だと思った経緯があります。明治時代に伊藤博文が「これはダメだ。うまくいかない」と途中で分かってしまった。しかし、1度作った憲法はもう変えられません。

 何が障害か。大日本帝国憲法第55条に「国務各大臣は、天皇を補弼(ほひつ)し、その責任を負う」とあります。つまり“国務大臣はみな横並びだ”と解釈できる文面になっているのです。

 「総理大臣がリーダーシップを取る」というニュアンスの文がどこか1カ所でも書いてあれば、総理大臣が内閣を調整し、各官庁の大臣が官庁の役人に対して強く出られないとしても、「トップがこうしろと言っているのだから、わが官庁はこうしないとダメなのだ」と大臣として言える。そうすれば、縦のラインが機能し、上の意思が下に達していくことができる。

 しかし憲法上、国務大臣はみな横並びとなると、総理大臣は調整役以上のことはできません。法解釈上、総理大臣が各大臣に命令を下したり、必ず総理大臣に相談して総理自らが「はい」と言わなければやってはいけないということが、できない仕組みだったのです。もちろん大胆に解釈改憲すればできたかもしれませんが、それは難しいのです。

 伊藤博文は、総理大臣の権限をより強めるために、重要なことは必ず総理大臣に相談しなければ進められないといった具合に、(無任所大臣を積極的に置くこととは少し違うけれども)総理大臣がリーダーシップを取って縦割りをやめさせていく機能を、内閣の中に足していかなければ機能しないだろうと考えました。

 今から思えば、あるいは大東亜戦争当時から思えば、伊藤博文は鋭い指摘をしています。統帥権の独立があるので、例えば作戦指導は参謀総長や軍令部総長が全権を持っていることだから、内閣は口を出せないことになっています。極端にいえば、「だから内閣は知らされなくてもいい」ということになる。だから、昭和19(1944)年、20(1945)年になっても、例えば台湾沖航空戦の戦果などを当時の小磯国昭首相は知らなかったし、続く鈴木貫太郎首相も(戦争の中身が)どうなっているか分からないという状況が続いたのです。

 だから伊藤博文は、日清戦争日露戦争の頃に「この内閣の仕組みでは戦争ができない」と気づいていた。憲法上は、軍は天皇直属になっているけれども、天皇が参謀総長や軍令部総長と相談したり、聞かされたりすることについて、内閣は天皇が教えてくれなければ知ることができない。これが明治憲法上の建て付けになってしまっている。(伊藤博文は)自分で作った憲法だが、これは失敗だったと分かった。

 そこで、総理大臣は参謀総長や軍令部総長のルートで宮中に伝わらない戦争の中身については、陸軍大臣、海軍大臣を通じて知ることができるという仕掛けを作ろう、と考えた。伊藤博文は、やはり後のことがよく見えていたのです。

 そういった仕組みを一生懸命作ろうとしたのだけれども、どうしても憲法の建て付けの問題がある。そのため、積極的に現行憲法のままで最大限可能な案を伊藤博文は作ったのだけれども、内々のことになってしまった。実際に仕掛けの改造はしないまま、伊藤博文もハルビンで殺されてしまったのです。


●西洋の体制を真面目に勉強しすぎた


片山 そして実際に日中戦争になってみると、やはりこのシステム(明治憲法体制)、つまり「総理大臣は調整役で、各大臣は官庁にべったりであり、そして縦割りがきつい(これは日本に限らず、官僚制自体が持っている性質ではありますが)」(の弊害に気づいた)。それは、日本が明治憲法制定にあたって「西洋の内閣は各大臣の責任が重く、総理大臣の独裁ができないようになっている建て付けが多いのだな」ということを非常に真面目に学んでしまったからです。

 実は明治期、明治憲法ができる前に内閣制を導入するわけですが、そのときの初期の明治政府は太政官制度でした。そして太政官は、臨時独裁官的に強かった。そのため、明治憲法で国務大臣の規定がはっきりするまでは、内閣制を導入してもまだ強かったのです。つまり、総理大臣が太政官的に強く振る舞うことができる仕掛けが残っていた。

 そのため、明治憲法になるまではまだ、後の言葉でいう「強力政治」、現代の言葉で言う「官邸主導」を、できないことはなかったのです。

 ところが、明治憲法を真面目につくりすぎた。「これが西洋だ。これが文明だ。特定の人間に権力が集中してはいけないのだ」と勉強しすぎてしまったがゆえに、伊藤博文も井上毅も(日本の後の歴史を考えれば...
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