●政党内閣は強力な政治を発揮できた
―― 意思決定が曖昧化してくると、まさに省庁の縦割りの話にもなってくるのですが、政府もどこが強いのか分からず権力が分かれています。天皇陛下がそれをまとめて、ドイツやロシアの皇帝のように強く命令するかというと、そういうことではなく、あくまでも大臣が上げてきたものを認可するのがベースとなる。これで本当に総力戦、国家を挙げての戦いができるのか。こういったことで日中戦争以降、国家としてどのように運営していけばいいか分からない局面になってくるのですね。
片山 これは本当に難しい問題です。近代日本における一般的な歴史の解釈は、(教科書にもよく書いてありますが)政党内閣がデモクラティックなものとしてあり、これに軍部や右翼のテロリストなどが次々と圧力をかけていき、ついに5.15事件で犬養毅首相が白昼堂々殺されたことによって政党内閣が潰えて、その後は軍部独裁の流れになった、というものです。
ですが、これは別の解釈が可能です。私がいつも自分の勉強のつもりで読んでいる当時の政治評論などによく書いてあることですが、むしろ政党内閣の時代はもっとも強力な政治が実現していた状況であったというのです。
つまり、憲法的には保証されていないのだけれど、原敬以後の政党内閣の時代は(途中で例外として清浦奎吾の超然内閣などが挟まりますが)、基本的にずっと政党本位の内閣が作られ、政党の発言力が強い時代です。しかも衆議院の与党のリーダーが総理大臣になる。貴族院ではなく、国民に選ばれている衆議院の与党が内閣を組織することが「憲政の常道」といわれた時代になります。
それまでは、日本は行政と立法が互いに、行政は立法に、立法は行政に屋根を伸ばさないように厳しい縦割りにして、超然内閣で、議会でどの政党が与党になろうが、与党の総裁を総理大臣にするなどということは憲法で保証しない。どの与党が強くなっても、それとは関係のない人が総理大臣になり、関係のない組閣をすることができる。これが原敬から以後は、背景にある国民の声を政府が受け取らないように運営していると見えることが、大日本帝国にとってマイナスであるという判断によって、正当に衆議院の与党に内閣を組閣させようということになっていったのです。
これは、戦後の議院内閣制の先取りといえます。立法権で、衆議院で力を持っている政...